第44章 - 7

根負けして諦めたように俺はそう答えた。
〈お任せください、決して悪いようにはしませんわ〉
彼女は表情を太陽みたいにパッと晴らして嬉しそうに微笑んだ。

それから俺は彼女の言うことをきちんと守って、まずはしっかりと療養に努めた。
ろくに口もつけていなかった食事をしっかりと取り、例の悪夢に苛まれ寝付けない時は彼女がいつも傍で宥めてくれた。
やがて包帯を外していても大丈夫になった頃、少しずつ歩けるように訓練を始めた。
初めは室内だけで壁伝いに、時に彼女に手を引かれ、ゆっくりゆっくり一歩一歩踏み出した。
時折襲ってくる激しい痛みや、自在に地を駆け跳んでいた体が赤子のように自由が利かなくなっていることへの焦燥と屈辱感、情けなさに何度も心が折れてしまいそうになったが、牧師の暖かく見守る目や、彼女の優しい励まし――時々、叱咤――にその都度奮い立たされた。
そうして挫けず地道に続けている内、壁に手をつかなくとも、誰の補助を受けなくとも、極めて頼りなくはあるが己の二足で数歩歩めるようになった。その時の二人といったら、まるで自分の事のような喜びようで、彼女はぐすぐすと感極まった様子で涙を滲ませ、牧師からはやんやと拍手喝采を送られた。当の俺は、それにどう応えたらいいか分からなくて、何ともいえない表情をしていたかもしれない。


思えば誰かから何の皮肉も嫌味も畏怖も無い称賛を受けたことなんて初めてだった。
今まで俺が成し遂げた事なんて泥やら血やら灰やらに汚れたものばかりで、それに送られる賛辞なんて悪意や恐れにまみれていて当然かもしれない。
だから、何の混じりけも無く純粋に、それも普通の者なら出来て当然の事なのに褒められて、暗闇に慣れた目に唐突に陽の光を浴びせかけられたモグリューみたいに驚き竦んでいる自分がいた。
〈本当に、本当におめでとう……!よく頑張ったね〉
ふらつく俺の手を取って支え、彼女は微笑みかけた。細めた目からぽろぽろと涙が零れた。
“あ、ああ……”
何だか胸の中がこそばゆいけれど、やり遂げたのはとても小さな一歩だけれど、決して悪くない感覚だった。
何もかも失った気でいた俺が、初めて手にした小さくてもかけがえのない栄光。第一歩だった。

〈明日からは少しずつ歩ける距離を増やしていきましょう。それで、十分に歩けるようになったら、村の中を案内がてら一緒にお散歩しましょ。後それから、村やここに住む子達を紹介するわ。今まで身体に障るといけないと思って面会謝絶にしていたけれど、みんなあなたの事が気になって、会えるのを楽しみにしているの〉


歩行訓練はその後も順調に進み、足取りも随分と安定して歩めるようになっていた。
そんなある日の午前中、彼女が何だかご機嫌な様子で部屋へとひょっこり顔を覗かせて、
〈おはよう、外は雲ひとつ無い良い天気ですよ!前にした約束覚えてる?あなたの足取りも大分しっかりしてきましたし、今日は村を一緒にお散歩しましょ〉
村を案内がてら一緒に散歩をしようと俺を手招いた。
そういえばそんな約束をしていたと思い返し、“ああ”と俺は頷いてまだ寝起きで気だるい体を奮い起こして、誘われるまま彼女の待つ部屋の外まで出て行った。
俺が出てくるのを見ると、彼女は後ろ手に隠していた編み籠をいそいそと取り出して見せた。
“なんだ?”
〈今日のために用意したお弁当。中身は、いつもとあまり代わり映えしないけれど……お日様の下で食べればきっといつもより美味しく感じるはずだわ〉
怪訝に籠の中身を尋ねる俺に、彼女は今日の為に用意した弁当だと微笑んだ。
“なるほど。悪くないな”
〈ふふ、でしょ?〉
ところどころギシギシいう古ぼけた木製の廊下を彼女の少し後ろからついて渡り切ると、少しばかり広まった空間へと出た。整然と一方向に向かって並んだ長椅子や、質素ながらあちこちに施されている厳かで独特な雰囲気の装飾からして、ここが所謂、神々というものを祀る聖堂や礼拝堂といった類の場所なのだろうと判断した。


今までまるで縁の無かった光景に、物珍しくて俺はついついきょろきょろと礼拝堂を見回していた。
特に目に付いたのが、ずらりと整列する長椅子達が一斉に正面を向けている最奥、窓に嵌め込まれた色とりどりのガラスで形作られる絵画――ステンドグラスというのか――だった。
大きな三角形の中心に巨大な円、底辺側の角の両内側に二つの小さな円があり、左下の円の中には四肢と一対の大きな翼をもつ煌びやかな真珠色をした二足の竜。
――何分、神など信じる性質ではなかったし、懐疑的な目で見ていたせいもあるかもしれないが、その一つの澱みも許さず磨き抜かれたような流麗な姿は、過ぎた潔癖さと冷酷な印象を抱かせた――
右下の円には屈強な四肢と背に大きな扇状のヒレがある暗い紺色をした四足竜、
――その如何なるものも弾き返してしまえそうな力強い姿は、あまりに無機質で冷淡にも見えた――
そして、中心の最も大きな円には何とも名状し難い、純白のしなやかな体躯に、後光かはたまた身体の一部か金色の輪を背負った、“何か”が描かれていた。
その“何か”は二頭の竜の特徴を掛け合わせたような、それでいて竜とも獣とも判断しかねる姿だが、全体のシルエットとしてはメブキジカやギャロップのような蹄のある四足獣に近いだろうか。
こちらを荘厳な面持ちで見下ろす様は、どこか傲慢で独善的に思えた。
〈あのステンドグラスに描かれているのは、この世界を創り出した神様とその御使い様だそうです。左の円に御座すのが空間を司るというパルキア様。右の円に御座すのが時間を司るというディアルガ様。そして、中心の一番大きい円に御座すのが、その御二柱を産み出しこの世界を創り出したという、全知全能のもの、万物の父であり母であるもの、創造神アルセウス様――〉
ステンドグラスを見つめる俺に、横から彼女が描かれている者達の意味を教えてくれた。


“ふうむ……”
彼女の説明に耳を傾けつつも、俺はいまだにその全体像に対して何となく収まりの悪さというか何かが欠如しているような違和感がして、ステンドグラスを眺め続けていた。
〈あの、どうかしましたか?〉
“いや、何というのだろうな、ここに描かれているものには何かが足りないような気がするのさ。底辺の角二つにはその御使いとかいう者達が描かれているのに、頂角にだけ何も無いというのはどうにもバランスが悪い気がしてな。あの頂角の部分だけ妙に隙間があるというか。中心の円も不自然に頂角側がもう一つ円が入り込みそうな具合に欠けている”
心配そうに俺の顔を覗きこむ彼女に、俺はステンドグラスに抱いている違和感について話した。
〈やっぱり気になります?牧師様に聞いたのですが、あの位置には本来、ディアルガ様、パルキア様、御二柱と同時期に産み出されたとされる、影または反物質を司り、この世の裏側から時空を安定させているといわれるギラティナ様という御使いの御姿が描かれ、大昔はパルキア様やディアルガ様と変わらないぐらいに厚く信仰されていたそうです。
ですが、どこかの偉い誰かがいつからか、私達この世に生きる者達は本来は命尽きない不死の身としてアルセウス様に創造された所を、ギラティナ様に死という概念を植え付けられてしまい定命となってしまったんだーだなんて唱え出して、この世の裏側に潜んでいるのは、そうして亡くなった方々の魂を引きずり込んで喰らうためだー、神を裏切って逃げ込んだんだー、だなんてあれやこれや散々に悪者扱いされて、瞬く間にその座を堕ろされてしまった――。
この話を聞いた時、何だか身勝手で酷い話だわって思ったの。神様達なんて目には見えないから、本当にそんなことしたかなんて誰にも分からない筈なのに、急に勝手に悪者だと決め付けた上に、手の平を返すみたいに態度を変えちゃって……〉


〈それに私達がいつか死ぬ事を定めたというのがもしも本当だとしても、それは仕方の無いことだったんじゃないかなって思うの。だって、新しい命は常にどこかで産まれ続けている筈なのに、誰もがいつまでもそのままでいたら、世界の広さだって限りはあるはずだからいつの日かぎゅうぎゅうになってパンクしちゃうわ。
今日のお弁当だって本当はもっと色々一杯詰め込んできたかったけれど籠には限界があるし、食べるかして減らさないといつか駄目になって、別の新しいものも入れられないでしょ。いつか終わりがあるって分かるからもっと今を大事に過ごしたくなる。もっと誰かを大切にしたくなる。これは牧師様の受け売りですけれどね。……あっ、私ったら、ごめんなさい、ついつい長話を〉
“いや、構わない。そのギラティナというのは一体どんな姿を?”
〈はい、ギラティナ様に関する資料はあまり残されていなくてはっきりとしないらしいのですが、身体の色は淡くぼんやりと輝く白金色で、背から何本もの影の触手を生やした長虫のような、あるいは三対の足と一対の影の翼をもつ重厚堂々とした竜の姿で描かれていたそうです。
牧師様曰く、他の御二柱よりも何だかおどろおどろしく描かれていて一見怖そうだけれど、世界をずっと見守っているという話の方が自分は好きだし事実と仮定するならば、その姿を怖がって目を背けずにじっくり顔をよく見たら、案外優しい眼をしているんじゃあないかなぁ、ですって。
私もそっちの方が素敵だと思います――って、いけないいけない、このままじゃお散歩できる時間がどんどん減っちゃいます。さあ、早く外に行きましょ〉
早く外に行こうと促す彼女に頷いて外へと向かうすがら、俺はもう一度ステンドグラスを一瞥して、あそこで踏ん反り返っている者達よりも、そのギラティナとかいう者の方が幾らか共感できそうだと思った。


いざ正面扉を押し開けて差し込んできた日の光に、思わず俺は後ずさってしまった。
窓越しではなく直接全身に浴びる太陽の光は随分と久しぶりで何だか痛烈に感じられた。
日差しに怯んでしまうなんて本当に悪魔か何かみたいだ、やり場の無い苦笑が漏れた。
〈ほらほら、何やってるんですか。早く行きましょ〉
“む……”
彼女はもたつく俺の手を取り、くいと外へと引っ張り出した。
目映い光が全身を包み、穏やかで清涼な空気が頬を撫でた。
目蓋をしぱしぱさせている内に徐々に目は光に慣れていき、古ぼけた石畳の細い道とその両脇に広がる素朴ながら手入れされた芝生の庭が映った。
その庭できゃいきゃいと賑やかにボールを追い掛け回している数人と数匹の子ども達の姿を見付けた。
子ども達もすぐに俺と彼女に気付き、立ち止まって顔を見合わせ……その後は例えるならば、とある一人の少年が美味しそうな焼き立てのポップコーンが入ったカップを無防備に抱え、腹を空かせたマメパト達が屯する公園にうっかり足を踏み入れてしまった、そんな状況を想像してくれ。
好奇心に目を輝かせた彼らの波に押し寄せられ、瞬く間に俺は取り囲まれてしまっていた。
あんなに素早く包囲されたのは、鉄の結束と外殻を誇る脅威の軍隊蟻アイアント達と戦って以来だ。
俺はその勢いにただただ気圧され、輪の中心でどうしていいかもわからず唖然と佇んでいた。


――牧師や村の者達、子ども達も彼女の事を“シスター”ではなくちゃんと本当の名前、あるいはそれに因んだ愛称で実際のところは呼んでいたが、前にも言った通り今の俺には彼女の名を口にするような資格は無い。だから、仮にシスターとしておく。

すげー、ホントにシスターとそっくりだ!
でも、シスターちゃんより、まっ黄色だし、ちょっと目付きもツンツンね。
この子、撫でても大丈夫かな、噛まないかな?

そんな風に人間の子達は俺を見下ろしてわいわいとはしゃぎ声を降り注がせ、

おにいちゃん、おケガはもうだいじょーぶ?
なーなー、にぃちゃんどっからきたの?
おでかけいいなー、どこいくの?

ポケモンの子達は俺の周りに詰め寄って、質問の集中砲火を浴びせかけてきた。
上と下からの激しい波状攻撃に堪らず、俺はアーボに見込まれたニョロモのようにぎこちない動きで彼女の方に振り向いて視線で助けを求めた。
彼女は仕方なさそうに微笑んで、ゆっくりと包囲網に割って入ってきた。
〈はいはい、みんな、ごめんね。お兄ちゃんはね、ただ遊びでお出かけする訳じゃあなくて、まだ歩く練習の最中なの。紹介はお夕飯の時にでもちゃんとするから、今はジャマしちゃダメよ〉
彼女に優しく窘められ、ちぇっとポケモンの子達は少しぶーたれながらも俺から離れた。
人間の子ども達も彼女の言葉が直接伝わるわけはないが、意図を何となく察して渋々道を開けた。
また後でねー、と子ども達の見送る声を背に受けながら、俺は一時の休戦協定に安堵の息を漏らし、だが、いずれ直ぐに迫り来る夕飯時という名の開戦合図を思って一匹身震いした。


〈びっくりしちゃいましたか?〉
ああ、と半ば嘆くようなへとへとの返事をして、俺は首を振るった。
〈一人一人、一匹一匹はとってもいい子達なんですよ。でも一度、大勢集まっちゃうと、その元気さは掛け算みたいに増しちゃって、もう大変〉
ふふ、と彼女は笑って言った。
いつもあの集団に対処出来ているのかと思うと、俺には何だか彼女が歴戦の勇士みたいに映った。
〈子ども達にも言った通り、あなたの事は夕飯時にでもゆっくり落ち着いて紹介するわ。その時は、あなたももうちょっと笑顔で、愛想よくお願いしますね〉
いきなりの難題に俺は思わず”なに?”と顔を顰めた。その逆の相手を挑発、威圧する方法なら部隊の悪たれ共との生活で十二分に学ばされ染み付いていたが、愛想を振りまくなんてとても無い経験だ。
〈はい、その怖いお顔。今、私の前では別に構いませんけどみんなの前では絶対に止めてくださいね〉
ぴしっ、と指差して彼女はびしりと指摘した。
“と言われてもだな……”
〈つべこべ言わない、皆に怖がられちゃったら嫌でしょ?いつもムスッとしていたら、素敵なお顔も台無しです。何事もやってみなければわからない、と言うわけで今から練習、ほら、ニコーって〉
後へと続けと言わんばかりに、彼女は微笑んで見せた。
仕方なしに俺はぎくしゃくと自分なりに笑顔を作ったみた。それを見た彼女は一瞬顔を青ざめさせ、見てはいけないものを見たかのように顔を逸らした。
〈あ、あの……その……これも、歩くのと一緒に少しずつ練習しましょうか。焦らず、少しずつ、ね?〉
”…………”
あの時の俺が浮かべた笑顔のつもりだった別の何かが一体どんな惨状だったのか自分では確認のしようがないが、彼女の優しい態度がその時は何だか逆に心に突き刺さった。


新たに課せられてしまった課題に四苦八苦励みつつ、俺は彼女の後に付いて村を見て回った。
村には特にめぼしい物も無く、素朴な造りのこじんまりした家々が点々と並び、その隙間を埋めるみたいに野菜畑や色とりどりの木の実が生る小さな木立が広がっていた。
だが、寂れた侘しい寒村というような悪印象は受けず、何と言うかまるで絵画の世界からそっくりそのまま抜き出してきたかのような、時代に取り残されてしまったと言うよりも、自らの意思でゆっくり歩んで古き良きものを保っている、そんな純朴で牧歌的な温かみを感じた。

時折道を行く人や、農作業に精を出している人、人々に随伴するポケモン達も皆、俺と彼女に気付くと気さくで朗らかに声をかけたり手を振ってくれた。
彼女は馴れ親しんだ様子でにこやかに応じつつ、練習の成果を試す良い機会だと彼らに愛想よく挨拶を返してみるようにそっと俺に促した。
俺の何だか不慣れでぎくしゃくとしているであろう笑顔に、彼らは何だか少しだけ不思議そうな顔をしつつも優しく受け入れてくれているようだった。

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