第44章 - 5

ぽたり、ぽたり、と頬に生温かい何かが続けざまに当たった。反射的に拭い去ると、つんと鉄みたいな臭いのする赤い液体状のものが手にべったりと付いていた。
動揺を抑えながら体を調べてみるがどこも負傷はしていない。でも確かにそれはまだ真新しい血だった。
一体どこから、何が起きているのか、周囲に視線を巡らす内にも、ぽたりと鮮血は再び俺の頬を打った。

――何を驚いているんだ、散々見慣れたものだろう?嗅ぎ慣れた臭いはまるで上等なお香みたいに落ち着くだろう?
厭わしく不浄な声が響いた。
ぞくりとして見上げると、快晴だったはずの空には今まで見たこともない程に不気味な色をした雲が垂れ込め、真っ赤な雨を降り注がせていた。
〈どうなさったんですか?〉
異変に気付いたのか、彼女が駆け戻ってこようとしていた。
来るな、と必死に止めようとするが、激しい動悸に喉を締め付けられた様になり、まるで声を出すことが出来なかった。
〈大丈夫ですか、どこか具合でも?〉
具合でも悪いのかと、心配そうに寄ってこようとする彼女に俺は“違う”と首を振るって、震える指先で上空を指差した。
〈何もありませんけど……?〉
それでも、彼女は何でもない様子で不思議そうにきょとんとして俺を見返した。


なぜ、どうして分からない?これだけ降り注いでいるのに。異様な状況に益々俺は錯乱した。
足元の焼け焦げた地面は降り続ける赤い雨がじっとりと染み込み、まるで腐った肉のようにじゅくじゅくとしていた。
ぼこぼこと泡立ち、止まりかけた心臓みたいにゆっくり鼓動していた。

――何を躊躇っているんだ、散々足蹴にしてきたものだろう?踏み慣れたものはまるで使い古したカーペットみたいに足に馴染むだろう?
忌々しく疎ましい声が響いた。
うぐ、と苦く酸っぱいものが喉を込み上げて俺は思わず後ずさった。
その足を何かが掴む。見下ろすと赤黒い地面の中から這い出た黒く焦げ付いた手が俺の足に絡んでいた。
ぼこぼこと煮立っていた地面の泡達が焼け焦げた顔のような形に固まり、空っぽの眼孔が一斉に俺を見た。
人間、ポケモン、老若男女ありとあらゆる者達の顔だったが、どれもこれも見覚えがある気がした。

――何を怖がっているんだ、俺達は見知った仲だろう?逃げるなんて酷いじゃあないか。お前は俺達を逃がしちゃあくれなかったのにな。
それはきっと、今まで俺が殺してきた者達の顔だった。まるで禍々しい合唱のように皆口々に怨恨の言葉を発し、俺を責め立てていた。

“馬鹿な、馬鹿な、こんなの、どうして……あ、ああ、俺は、俺は――!”
自分の成して来た事の無残さ、おぞましさをまざまざと見せ付けられ、俺は恐慌状態に陥って叫びながら頭を抱えていた。
心の“余り”達が暴れ狂い、壁の亀裂が瞬く間に広がって、とうとう決壊は始まった。


〈――さん、――さん!気を――に、落ち着いて!これは、まさか――〉
狂気に引きずり込まれゆく意識の中で、懸命に俺に声をかける彼女の姿が目に入った。
ああ、そうだ、彼女だけでもここから逃がさなければ。朦朧とする意思に置かれながらもそう思い立って俺はふらふらと彼女に向かって手を伸ばした。
〈……!やめて!――アーク!この――は、敵なんかじゃ――!〉
急にハッとした様子で彼女は悲痛な叫び声を上げて何かを止めようとした。
しかしその声は届かず、後方からの風を切る音と同時に俺の背に深々と鋭い痛みが走った。
一瞬で全身の力が抜けていくのを感じ、俺は前のめりに倒れ込む。その瞬間、血と腐肉に覆われたおぞましい世界は霧散した。

――俺が見ていた恐ろしい光景は全て幻、作り出された幻影だったんだ。
とあるポケモンの手によってね。

背からだくだくと何かが流れ落ちていく感覚と共に、意識はどんどんと薄れていった。
ぼやける視界の先で、黒い毛並みをした人間程の大きさもある二足歩行の獣が真紅の長い鬣を靡かせながら、彼女に素早く駆け寄った。
そして、獣は何か気遣うような言葉を掛けながら彼女に手を差し出す。
彼女はそれを悲憤した様子で払い除け、涙をぼろぼろと零しながら俺の傍にへたり込んだ。
その光景を最後に、俺の視界と意識は完全に暗闇へと堕ちていった。


暗い暗い場所だったよ。よく死の間際には、まさしくこの世のものとは思えないような花畑とか川原とか、はたまた神や仏なんて呼ばれる者達と対峙するとか、不可思議で綺麗な光景を目にするって聞いたことがあるけれど、そこには暗闇以外何にも無い。
もしかしたらまだ辛うじて意識の残りカスがあるから暗いと感じるだけで、そこには暗闇さえも無いのかもしれない。
ある種の人間達が信じて説き唱えているような、天国とも地獄とも食い違う、そこには的確に言い表せる言葉も無い----なぞのばしょ。
そんな場所を俺はぽつねんと漂った。
ああ、俺はあの獣に背から裂かれてそのまま死んだんだな。冷静にそう判断できた。
迷いも恐れも怒りも沸いてはこなかった。これでいいんだとすら思った。
このまま俺はきっとどこにも行くことも何もすることもなくここに留まり続け、やがて考えることすらもやめて無の一部となるんだろうと淡々と考えた。
しかし、そんな静かに消えていく事は俺には許されなかった。“彼等”は逃がしてはくれなかった。
急に周りに存在を感じた。棒状でゆらゆらとしていて、平たい先の方に何本かの細長い突起がある。
それは何本もの、何十本もの、何百本もの、無数の手、手、手。
認識すると同時、手は俺を捕らえようと一斉に群がってきた。


平静を保っていた俺の意識に、途端に恐れが振って湧いて来た。
“彼等”だ。俺が手にかけてきた者達だ。“彼等”の存在は幻影の中だけでは留まらなかった。
きっと恐らくあの幻影は対象が最も恐れるものを無意識に鏡のように反映して見せただけで、意図的に“彼等”を写そうとしたわけではない。
“彼等”は最初からこの場所で俺が来るのを待ち侘びていたのだ。そう感じた。
俺は逃げた。ただ我武者羅に闇雲に負ってくる手の気配から離れるように逃げ続けた。
されど無数に追ってくるものをかわし続ける事なんて出来るはずも無く、やがて尾の辺りをがしりと掴まれた。
放電して抗おうとしてもまるで電気袋に力は入らず、瞬く間に押し寄せてきた”彼等”に俺はずぶずぶと取り込まれていった。
――嫌だ、嫌だ!
必死に声を上げようとしても、喉はうんともすんとも言わなかった。
苦し紛れに俺はまだあるかどうかも分からない自分の手足をばたばたとさせてもがいた。
もがいてもがいて、もがき続けている内に、やがて俺の手はがしりと何かを掴んだ。
途端に差し込んだ光と共に俺の体は引っ張り上げられたように感じ、ぱちりと視界が開いた。
目の前にはとても驚いた様子のシスターが居て、俺は見知らぬ一室のベッドの上に横になったまま、彼女の手を確と握っていた。


〈意識が、戻って……?ああ……よかった、本当によかった……!〉
彼女は俺の手を両手で包む様に握り返し、目を一杯に滲ませた。
〈ごめんなさい、謝って済むようなことではないとわかっています……。私が別れを惜しむばかりに、あなたを引き止めたりしなければ、きっとこんなことにはならなかったのに……本当に、ごめんなさい〉
彼女は顔を俯かせてただひたすらに謝り続けた。握り合う手にぽたぽたと涙が滴り、伝った。
対して俺は、長い間寝ていたような感覚と、おぞましい悪夢からひとまず解放された安堵感で頭がぼうっとしていて、状況も掴めずきょとんとその稀有な光景を見ていた。
彼女があんなにぼろぼろと泣いている姿なんてその時まで見たことが無かった。
“……ここ、は?恐縮だが、今は謝罪より現状の説明を願う”
溺れ掛けてやっと水際に上がってこられたかのように荒れている息を整え、俺は簡潔に尋ねた。
〈は、はい――〉
嗚咽を堪えながら彼女は話し始めた。

俺が目覚めたのは、彼女が住まう教会の一室だった。
黒い獣の不意打ちによって重傷を負い意識を失った後、俺はすぐさま村へと運び込まれて治療を受け、どうにか一命は取り留めたものの、数日間昏睡状態にあったらしい。
ずっと弱弱しく苦しそうにうなされ続ける俺に、彼女はろくに寝食もせずに付きっ切りになって看病していたようだ。
その目元には涙での腫れとは別に、疲れと隈が少し浮かんで見えた。


“あの黒い獣は君の知り合いか?”
〈はい、彼は――〉
どうも彼女とは顔見知りらしい素振りを見せていた黒い獣の事を俺は尋ね、彼女がそれに答えようとしていたところで、突如として扉が乱暴に開け放たれ、何者かがが部屋へと飛び込んできた。
それは、件の黒い獣だった。
『目覚めた、な……』
獣は赤い鬣を大きな炎のようにめらめらとざわめかせ、肩を怒らせて今にも爪を振り上げて飛び掛ってきそうな剣幕で俺の方に向かってこようとしていた。
〈やめて、ゾロアーク。このひとは敵じゃないって言ったでしょう〉
すぐに彼女はゾロアークと呼んだ獣の前に立ち塞がり、押し留めようと手を広げた。
『駄目だ、信用できない。危ない、どいていろ』
しかし、ゾロアークは数倍近い体格差で持って彼女をひょいと軽がる抱き上げて脇に退かしてしまい、俺にずいと顔を寄せた。
獣は牙と憎悪を剥き出しに、ぐるると唸りながら俺の目をじっと見据え続けた。
“さて、どうも急に背中から斬り付けた事を詫びる、という態度とつもりではないように見える。彼女からも伝えられたであろう通り、当方に彼女及び村の者達に危害を加えるような心積もりは無い。
誤解に依る攻撃であるのなら、手痛い損害を受けはしたが水に流すこともやぶさかではない。まずはその好戦的な対応の解除と釈明を要求する”
睨みあっていても埒が明かないと、俺は淡々と口火を切った。


だが、ゾロアークは態度を崩さず、鋭い爪を堪えるようにわなわなと震わせていた。
“端的に繰り返す。お前と事を荒立てるつもりは無い。村に危害を加えるつもりも無い。全くの誤解だ”
嘆息を堪え、俺はもう一度繰り返した。
それでも、ゾロアークの姿勢はますます強まるばかりだった。
『誤解……?違う、嘘吐きめ』
そう言うとゾロアークは厚みのある赤い後ろ髪におもむろに手を突っ込み、中からするりと何かを取り出して俺に突きつけた。俺が巻いていたスカーフだ。
そこに記されている赤黒い染みに汚れた軍の標章をゾロアークは苦々しく爪の先で示した。
『これ、軍の印。奴らの兵器の証拠……!』
息を荒げながらゾロアークは湧き上がってくる感情を堪えきれなそうに震える手をゆっくりと俺の喉元へと伸ばしてきた。
このままじっとしていれば、容赦なくこの獣は俺の喉に爪を突き立てて引き裂くだろう。
それ程に明確な敵意と危機感をひしひしと感じた。
だが、頭では分かっていても、俺の体は動かなかった。
ただ単純な殺意であったならば、慣れたもので恐れはしない。
俺を射竦めたのはその根深く暗い憎悪に満ちた目と、恨めしく伸ばされる手。蠢く“彼等”が脳裏を過ぎり、ゾロアークに被って見えたんだ。
赤い爪が今にも俺の喉元を掴まんという時、か細い閃光が弾けて黒い腕をびくりと退かせた。
〈いい加減にして、ゾロアーク!彼は関係ない!それにそんなことしたって、誰も喜ばない!〉
強い調子で彼女はゾロアークを諌めた。
悲しそうに目を細めてゾロアークは肩で息する彼女を見やると、数歩退いて口惜しげに俺を再び睨んだ。


『今は見逃す。でも、俺はお前も奴らも許さない……!すぐにここから出てけ!』
ゾロアークは手に持った軍のスカーフを火を吹き出して燃やし、燃えカスを見せ付けるように踏み躙って消すと部屋を勢いよく飛び出していった。
その背を見送り、彼女は嘆くように小さく項垂れた。
〈重ね重ね、ごめんなさい……。普段はこんな乱暴は絶対にしない、寡黙で優しいひとなんです。でも、ここまで見境が無くなってしまっているなんて――〉
燃えカスを片しながら、沈痛な面持ちで彼女は再度謝罪した。
“随分と俺は憎まれているようだ”
未だ残る肺を直接締め付けられるような感覚を堪えて俺は言った。
〈以前にもお話しましたが、この教会には戦渦に巻き込まれ身寄りを無くした子達が大勢います。彼もまたその一匹です……〉
彼女の話によれば、ゾロアークもまた戦争で身寄りをなくした者の一匹だったらしい。
小さなゾロアであった頃に一族で暮らしていた住処を、進軍する軍隊にもののついでのように掃討、焼き討ちされ――恐らく、一族の持つ一片に大勢を化かす事が出来るほどに強い幻影の力が、いつ任務の障害となるやもしれないと疎まれたのだろう――彼はただ一匹生き残った。
まだ禄に食べ物を得る手段を覚えていない幼い身に野生を生き抜くのは当然に苦しく、衰弱しきった状態で彷徨っている所を運良く牧師の目に留まって連れてこられたそうだ。
〈最初の内は塞ぎ込んでいて中々心を開いてくれなかったけれど、いざ打ち解けてからは歳が近いこともあって、彼とは兄妹のように育ちました〉
やがて成長し立派なゾロアークに進化した彼は、救ってくれた牧師や村の人々の恩に報いようと村の番人を買って出た。いつかまた己の故郷のように村が理不尽な暴力に晒されてしまうことを危惧してだ。


〈彼の決意に私は乗り気ではありませんでした。彼が危険に晒されるかもしれないという心配も当然ありましたが、それ以上に彼からひしひしと仄暗い、それでいて激しい感情を感じたんです〉
村への報恩とはまた別に、まるで仕込み刀のようにゾロアークはかつて故郷を奪った者、更に歪んで軍に属する者達全てへの復讐心を抱いていた。
〈彼の決意は固く、私の言葉では止められはしませんでした。大切なものを奪われた怒り、憤り、悲しみは抑えようとも抑えきれず、またいつまでも晴れないものだというのは、心苦しいながら私にも理解できます。
でも彼が怒りに駆られたまま無作為に兵隊さんを殺めてしまっては、その仲間の方々が彼を許しはしないでしょう。そこでまた彼が殺されれば、村の方々も私も嘆き、憤慨し――復讐はたちの悪い伝染病のように次々と伝播していってしまう〉
番人になることは止められはしなかったものの、彼女はもしも軍隊や悪意ある者が村に近付いてこようとしていても、決して殺すことや大怪我を負わせることをしないようにゾロアークを説得した。はずだった。
〈分かってくれたものだと思っていたのに……あなたをこんな目に合わせてしまった。彼の激情への認識が甘かった、全部私のせいです……〉
ゾロアークも当初の内は彼女に言われた通りに村に近づく者があっても、極力傷はつけずに幻影の力だけで追い払っていたのだろう。
だが、今回ばかりは事情が違った。
ゾロアークからしてみれば、突然の落雷に燃える森――軍が何かしら関与しているであろう事は想像に難くなかっただろうし、故郷を追われた時の悪夢がありありと思い起こされたことだろう――に兄妹同然に育った彼女が駆けつけていってしまったまま、長い間行方不明になってしまっていたのだ。
燻っていた復讐心が吹き起こされ、更に油を注がれたように燃え上がってしまっても無理はない。

- 139 -
スポンサーリンク
スポンサーリンク