第44章 - 4

いつも、どこかのほほんとしているようでありながら、彼女はしっかりと俺達の事を見て、聞いて、まるで骸転がる荒涼とした砂漠から砂金の一粒でも見つけるみたいに大変であろうに、良い面・長所となる部分を把握していた。
いや、彼女にとってはそれは灼熱の砂漠などではなく、暖かい砂浜であり、そこから綺麗な貝殻の一つでも見つける程度に容易い事なのかもしれない。
少しくらいゴミが転がっていてもひょいと拾い上げて取り除いてしまうのだ。

スカーは表情を複雑にくしゃくしゃと歪めてから、『ふぅー……』と長い溜息をついた。
『俺の飲むペースに最後まで着いて来れんのは、あの野郎くらいのモンだったよなぁ。ジョッキや酒瓶ごと丸呑みしやがってよォ、ヒャハハ、ハ……ちくしょう』
ぎり、とスカーは歯を噛み鳴らして目元を腕で拭い去り、壁を叩き付けた。
時に己の身を危険に晒すことすら強いられる俺にとって命など、それも他者のものなど、意識すらしないように努めていた。
他者の命なんて二の次、三の次、最重視すべきは命令の遂行、敵の排除だと訓練・調教によって骨の髄まで染み渡るように叩き込まれてきたんだからな。
この部隊にいる者達も重視しているものはそれぞれ各々、単純に己の命であったり、食欲だったり、功労だったり様々に違っていても、全て自分のためになるものであり、他者の事を思いやる、命を気にかけている奴なんて皆無に近いだろうと思っていた。
だが、彼女の存在によってそれが少しずつ変わっていった。
いや、本来あるべき姿へと段々と戻っていったと言うべきなのかも知れない。


『あの野郎、無理して俺達なんかを庇う様な真似しやがってよ。馬鹿だぜ……何か、他にまだ方法はあった筈だ。誰もくたばらねえで済むよう方法がよぉ……』
マルノームは屋内を件の“目的”を探っている時に、潜んでいた敵の手により、不意を打って手投げ弾のように投げ込まれた自爆寸前のビリリダマの爆発から俺達を庇った。
狭い突き当たり、ビリリダマを爆発する前に始末することも、蹴り返すような間も無く、少しでも被害を和らげようと、今にも破裂しようと膨張して振るえる丸い体を、近くにいたマルノームは咄嗟に飲み込んで――……勇敢な最後だった。
無念そうに口元を歪め、拳を振るわせるスカーの姿を見ていて、『死を悼む』そんな語句が俺の中にふって湧いた。
そして、部隊の誰かが先に逝く度に、己の胸の片隅に抱いていた虚脱感、空虚感のようなもので空いた隙間に、ぴたりと音を立てて嵌まり込んだような気がした。
何事も割り切って冷徹を努めていた俺が、他者の死を嘆き、悲しんでいた。
それは驚くべき、怖れるべき変化だった。ならば、それなら、今まで俺がやってきた事は……?
俺は途端にぐっと喉を爪で押し込まれたように息が詰まり、血の気が引くような気がして、その自問の答えが出る前に即座にそんな思いを振り払った。

しかし、心に楔の如く打ち込まれた変化は、今まで割り切ったと思い込んでいたもの達の“余り”を片隅に寄せ集めて封じていた壁に、小さくだが確実に穴を穿っていた。
どんな頑丈な堤防であろうと少しでも穴が開いてしまえば、そこから決壊は始まるのさ。
――罪を認識した時、罰は、裁きは遠からず訪れる。音も声も無くとも必ずや。


“目的”の捜索は一向に進展せず、その範囲はやがて岩窟の奥底や、鬱蒼とした深い森、乾いた風が吹き渡る荒野にまで広がっていった。
凡そ人の足では容易に入り込めそうも無い過酷な秘境紛いの地を探り回らされ、部隊の者達は自分達が探させられているものは本当に人間なのかと疑問視する声を上げ始めていた。
だが、そのぐらいの時期に新たに配属されてきた上官――スカー曰く、
『まるで蛇みてぇに冷たい目をした人間の女だ。俺が人間だったとしても、幾らベッピンだろうとあんなのはやだね。キナくせー臭いがぷんぷんしやがる』
人間として美麗な風貌ながら、この世のものならざる何かを潜めているような、底知れぬ不気味さを感じさせた――は兵士達の疑念の声を黙殺し、“目的”の正体を曖昧に暈かしたまま俺達に捜索を続けさせた。

任務の過酷さは日に日に増し、犠牲もまた増えた。
ブーバーンがやられた。敵の潜伏するという隠れ家に攻撃をしかけた時だ。
敵軍のキリキザン――全身が刃物のように鋭い、赤い人型の鋼ポケモンだ――が、捕虜となっていた俺達の仲間をわざわざ窓際へと連れ出し、見せ付けるように痛め付けた。


あからさまな挑発だ。乗れば確実に罠が待ち構えているのは分かりきっていた。
断腸が更に煮えくり返る思いで堪える俺達の傍らで、ブーバーンは抑え切れぬ程に激昂した。
それまで自分為にしか怒らなかったあいつが、誰かの為に怒り狂っていた。
あいつは俺達の制止もまるで聞かず、炎は鋼に強いと言う相性の優位による驕りも相まって、全身の炎を激しく滾らせながら、単身でキリキザンの下へと向かっていった。
そして、あいつは周囲に潜んで待ち構えていた岩ポケモン達が放った岩石の集中砲火を浴びて散った。

このまま俺自身もいつまで無事でいられるか分からない。
彼女をちゃんと村に帰してやるという約束を果たすことは本当に出来るのだろうか。
そんな焦燥が募り始めていた時、ひょんな事に国境付近の哨戒なんて命令が舞い込んできた。
そう、彼女と初めて出会ったあの森の程近くだ。
きっと、これが彼女を帰すことが出来る最後のチャンスだと思われた。
俺は前日に部隊のポケモン達に集まってもらい計画を打ち明けると、彼女との別れを名残惜しそうにしつつも、皆快く協力に応じてくれた。

次の日、出動前に俺は予めくすねておいた空のモンスターボールの中に彼女に入ってもらい、他のポケモン達と協力して兵士達の目を盗んでトラックの荷台へと持ち込んだ。


現場に到着して、俺は自軍のマークが刺繍されたスカーフで彼女のモンスターボールを包んで、丁度泥棒が風呂敷包みを背中に担ぐように巻きつけて背負い込んだ。
傍から見てあからさまに俺の背は膨らんでいることだろうが、スカーや他のポケモン達がさりげなく兵士達の視線を遮ってくれた。
頃合を見て上空で偵察するピジョットが虚偽の報告をして、そちらに注意が向いている間に俺が彼女を連れて抜け出すという算段だ。
それじゃあピジョットが後で大目玉を食らうんじゃないかと彼女は心配していたが、
『なあに、気にする事はない。今の当方には貴女が無事に帰ることが出来たと報告を受けることが、何ものにも変え難くこの上ない褒賞である』
そんな風にピジョットは敬礼をしてニッと嘴を緩ませていた。

程なくして、上空を旋回するピジョットが警戒を促す甲高い声を上げ、兵士達の注意が一斉にそちらに集った。
見計らったようにスカーが俺の背をポンと軽く叩いた。
『お別れだな、シスターちゃん。無茶してまたワルーいヤツらに捕まったりするなよな。それじゃあしっかりエスコートして来いよネズ公』
“ああ。必ず無事に送り届けるさ”
気を引き締めて発とうとする俺に、そっとスカーが意地悪くニヤついて囁いた。
『くれぐれも駆け落ちなんてすんじゃねーぞ』
“す、するか、馬鹿野郎!”
ケラケラとからかうスカーの笑い声を振り切るように、俺は素早くその場を後にした。


彼女と初めて出会った森の焼け跡まで来て、俺はモンスターボールを取り出して彼女を解き放った。
彼女は暫し目をパチパチさせてから、こちらへと振り向いた。
〈ううん……ごめんなさい。やっぱり、このモンスターボールには中々慣れないわ。出入りの時の光にびっくりしちゃって〉
“一度慣れてしまえば案外居心地は悪くないものなんだがな。だが、もうこれからはそんな大変な思いをすることも必要もあるまい”
モンスターボールの光に未だに戸惑うと気恥ずかしそうにする彼女に向かって、俺はなるべく平静に感情を押し殺して言った。
途端に俺と彼女はしんと黙って、暫し徒然と視線を宙に泳がせた。
別れがもうすぐ其処まで迫っている。それは当然の事なのに。
彼女が村に帰ってしまう。それは喜ぶべきことなのに、何故だか俺は心の底から喜べないでいた。
〈……あの、少し一緒に歩きませんか。村まではまだ距離があるので〉
村までまだ距離があるから少し一緒に歩かないか、沈黙を破って彼女はそう俺に切り出した。
俺は“ああ”と簡潔に了承し、並んで一歩一歩を惜しむように歩き出した。

道すがら彼女は取り留めのない話を続け、俺はそれにただ耳を傾けて頷いていた。
本当は俺にももっと話したいことがある筈なのに胸中はもやもやとするばかりで上手く纏まらず、何も喋る事は出来なかった。
この時ばかりは、まるで高速スピンするカポエラーみたいに無駄に口の回るスカーの奴が羨ましく感じた。
あいつであればこのもやもやを巧みに凝り固め、気の利いた意匠の一つでもして取り出せるんだろうか。己の不甲斐無さに、ふうと溜息が一つ出た。


焼け跡を歩き続けている内に、先の方に炎を免れ焼け残った森の姿が段々と見えてきた。
もうすぐお別れですね、彼女はぽつりと呟く。俺はただ”ああ”と頷くしかできなかった。
焼け跡と生い茂る木立の境目まで来て、彼女は木立へと一歩踏み込んでから急に立ち止まった。
〈……本当にこのまま駆け落ちしちゃいましょうか?〉
こちらに背を向けたまま、本当に駆け落ちしましょうか、と彼女はそっと言った。
“えっ?”
まさか彼女の口からそんな言葉が出てくるなんて、びっくりして耳を疑うように俺は聞き返した。
〈えへへ、なんちゃって、ジョークですよ、ジョーク。スカーさん流の。引っ掛かりましたか?〉
すぐに彼女は振り返り、スカーの真似をした冗談だ、と取り繕うように笑った。
“なんだ、まったく……。あんなヤツの真似をしちゃいけない、バカが移ったら大変だぞ”
はあ、と俺は複雑な嘆息を漏らした。
〈ふふ、ごめんなさい〉
微笑んで謝る彼女の顔はどこか寂しげだった。


――もしも、あの時、あのまま彼女の手を引いてどこか遠くに逃げてしまっていたら、運命はどう変わっていたんだろうか。
いや、上手くいく筈がない。一時の迷いのような覚悟で村を捨ててしまったら、きっと彼女は深い後悔にくれてしまっただろうし、あの時の俺には過酷な逃亡生活の中でそんな状態の彼女を守りきる事は出来なかっただろう。

再び訪れた幾ばくかの沈黙の後、またいつか会えるでしょうか、と彼女は尋ねた。
俺はそっと首を横に振るった。
“きっと、もう会える事は無いだろう”
俺は焼け跡の上に立ち尽くしたまま、木立の中の彼女に向けて言った。
“俺はこっち側で産まれ、ずっと生きてきた。そして、これからもそういう生き方しかできない、許されないだろう。だが、君は違う、シスター”


彼女はぐっとこらえるように口元を歪めてから、無理に引き出した様子の笑みを浮かべた。
〈ねえ、最後なんだから、せめて一度くらいは本当の名前で呼んでくれませんか?〉
最後の別れの時くらいは本当の名前で呼んでくれないか、と彼女は求めた。
だが、俺はそれを突き放すようにすげなく再び首を横に振るった。
“生憎だが……それは出来ない”
死と灰と悪意しか齎してこなかった俺が彼女の本当の名を口に出してしまっては、その名を延いては彼女の存在を汚してしまうような気がして、とても呼ぶ事は出来なかった。
これ以上、俺は立ち入る事は出来ない。見守っていく事は許されない。
ならばせめて、神が本当にいるのならば彼女の献身に相応の加護を与えてくれますよう。
“さあ、あるべき場所に帰るんだ。もう二度と俺達の様な者に捕まることのないよう。生涯、平穏無事に暮らしていけるよう。健闘を祈る、『シスター』”
俺は思いを託して彼女をそう呼び、別れの敬礼をした。
〈本当に、強情な方〉
彼女は今にも零れ落ちそうな程に目に涙を一杯に溜め、くす、と俺の強情さを笑った。
〈送ってくれて、ありがとう。今までお世話になりました。あなたもこの先、どうかご無事で〉
今までありがとうと彼女は深々とお辞儀した後、名残を惜しむように木立の奥に足を向けた。
一陣の乾いた風が吹き渡り、俺の毛並みと草葉をさわさわと揺れ動かした。
舞い上がった砂と灰のせいか、彼女の背が陽炎のように少し滲んで見えた。


悪魔と蔑み呼ばれていた男と、そんな者にさえ動じず手を差し伸べて救いを与えてくれた女――まるで真逆の存在が出会い、そしてまた別々の道を歩んでいこうとしていた。
しかし、本来、決して交わる事が無いような二つの道が交差して生じた歪みは、捻じくれてしまった因果は、二匹を易々と平穏には離してくれはしなかったんだ。

彼女の背を見送りながら、もう何も思い残すことは無い。そんな風に思っていた。
部隊へと帰ればまた過酷な生き地獄が待ち構えているだろう。いつまで生き残れるのか、もしかしたら明日にでも俺がくたばる番が来るかもしれない。だけど、もういいんだ。
命を奪い取ることしか出来なかった俺が、初めて誰かを救うことができた。
彼女が無事に生きてくれさえいれば十分だ。死にゆく時が来ても、きっと未練無く逝ける。

――本当にそうかな?
その時、誰かの声が響いた。
“誰だッ!?”
驚いて俺は声を上げ、俺は周りを見回した。しかし、辺りにはそれらしき姿は無かった。
――そんな一切れのパン屑みたいなちっぽけな偽善の一つだけで、お前のやってきたことが全て許される、俺達が許す、とでも?
暗い暗い深淵の奥底から這い上がってくるような、おぞましく冒涜的な声だった。
それは、俺の心の片隅から、割り切れなかった“余り”達を封じ込めていた壁に入った亀裂から漏れ出していた。

- 138 -
スポンサーリンク
スポンサーリンク