第44章 - 17

ズドン――後方から重々しく地を砕く音が一度、轟く。
伴って微弱な振動が伝わって以後、ぱたりと争う音が止んだ。辺りを覆う霧の幻が一瞬大きく乱れて歪み、消えていく。
背中の傷が騒ぎ立つように痛み出す。それでも俺は立ち止まらなかった。

霧の消えた空を大きな翼が大気を荒らす音に促されるように見上げると、目を疑い、ひいては覆い隠してしまいたくなる様な、終末の光景が広がっていた。
天幕のように広げられた幾つもの翼膜に光を遮られ薄暗い空に舞う、三つ首振るう六枚翼の黒竜サザンドラと、深紅の翼翻す青竜ボーマンダの群れ。
霧の中にいる間に、より数を増したようにさえ思える。
その中に、一際目立つ翼竜の姿があった。
名も知らぬそいつは鱗の代わりに体に生え揃った一切の穢れが無い純白の毛並みを棚引かせながら、一斉に迫る黒と青混成の群れを奴らよりも一回りは大きい体躯からは考えられない機動力で圧倒し、巻き起こす青白い炎は生半可な熱や衝撃などものともしない竜の翼さえ焼き焦がし、次々と撃ち落としていた。


飛び交う竜達の標的は殆どがあの純白の飛竜へと向けられている。
そのまま竜達の注意がこちらに来ない内に、流れ弾と撃墜された竜が落ちて来ないように祈りながら俺は進んだ。
最早この状況で自分に何が出来るとは思わない。でも、立ち止まるわけにはいかなかった。
せめて一目、彼女を、子ども達を、牧師と村の人達を、そしてまだ孵らぬ自分の子の姿を見たい。一心だった。
教会の扉までのたったもう十数メートル、それがとてつもなく長く感じられる。
また一頭、空から断末魔の咆哮が上がり、竜が墜ちる。頭上から迫ってくる風切り音と、俺の足元でどんどんと広がる影。
一頭のボーマンダが俺の上へと墜ちて来ようとしていた。
俺は足に力を込めて懸命にその場から逃れようとした。
しかし、薬も切れ、弱りきった足ではとても間に合わない。
それに気付いたかのように純白の飛竜が素早く旋回し、こちらに急降下を始めた。
尾の先からジェットエンジンのように火を噴出して加速し、墜落するボーマンダに追いつくと、強引に横から体をぶつける。
衝撃で落下の軌道は僅かに逸れ、のたうつ尻尾を俺の目前に掠めさせボーマンダの巨体は地にめり込んだ。
焼け剥がれた翼の鱗が舞い上がり、火の粉となってちりちりと降り注ぐ。
純白の飛竜は自身も制御を失いかけ、翼をばたつかせてどうにか体勢を立て直す。
竜が俺を守った?
火の粉を払いながら仰ぎ見ると、純白の飛竜もまた俺を一瞥し、視線が交差する。
その瞳は燃え上がる炎とは対照的なまるで静謐な湖のような澄んだ青色をしていた。
“ミュウなのか?”
その瞬間、俺は飛竜の正体を悟り、声をかけた。


問いかけに飛竜は透き通った咆哮を一つだけ返し、翼を翻して上空へ向き直る。
一瞬動きを鈍らせた純白の飛竜の隙を竜達は逃さなかった。
竜達は大きく吸い込んだ息に喉と腹を膨らせ、限界まで力を込めると一斉に次々と大口を開いた。
多重層の如く解き放たれた咆哮は荒れ狂う力の奔流となって大気を、空間そのものをもぐちゃぐちゃに掻き乱し、大地までをも震え上がらせた。
竜達の後方、空の彼方に数え切れないほどの輝きが瞬く。最早、美しくすら見えることが尚おぞましく恐ろしい、竜の咆哮に召し寄せられた隕石が放つ滅びの光だ。
純白の飛竜は力を呼び起こすように尾に体の節々まで赤熱化するほどの炎を渦巻かせ、堤防が決壊するかのように爆発的に巻き起こった青い爆炎を帯状に収束させて、迫る隕石群へと放った。
直接浴びずとも溶鉱炉の間際にいるような熱気に俺の毛先は焦げ、嫌な臭いが鼻をつく。
炎に触れた隕石達は瞬く間に真っ赤になってバラバラに砕け散った。
俺の頭の中に、突如、テレビの砂嵐画面に似た”ノイズ”のようなものが走る。
ノイズは周波数を合わせるように少しずつ鮮明になっていき、
――『何をポッポが豆鉄砲を食ったみたいにボーっとしてるのさ。早く行きなよ』
はっきりとそう響いた。聞き覚えのある、まるで無邪気な子どものような、それでいてどこか長らく生きてきたゆえの深い含みを感じさせる声色。
間違いない、ミュウの声だ。
一陣を退けても尚、続々と空からは二陣、三陣の流星が降り注いでくる。
――『急いで。少しでも安全な教会の中に。いくらとっても強いこの子の姿を借りてたって、さすがに多勢に無勢だ。正直、いつまで防ぎきれるか分からない』


炎が飛竜の前面で盾のように厚く広く燃え上がり、巨大な光の障壁が展開される。
俺は竦みかけた足を叱咤し、前に進んだ。流星が炎の壁を打つ激しい音が立て続けに響く。
――『ごめんよ。もう少しだけ、せめて君の子どもが無事に大きくなるくらいまでは平穏に見守っていたかったのだけれど。やはりボクとセレビィの二匹分も匿って隠れきるのは、ボクとぎらちーの力をもってしても無理があったようだ』
衝突音が響く度、テレパシーを通して伝わるミュウの思考に疲弊の色は強まった。
――『当然だよね。ボクはぱるぱるに追われ、セレビィもでぃあるんから逃げてきて、それが一箇所に集ってしまったら、リスクだけが増すばかりか追っ手の力は倍増さ』
とうとうだ。俺は教会の扉の前へと辿り着き、背伸びしてドアノブに思い切り手を伸ばす。
――『全く、いつもあの子はとんでもない厄介事を持ち込んできてくれる。なのに“何してるの、君も早く逃げたらどう?”だなんて素知らぬ顔で荷物まとめ始めちゃってさ。
……いや、例えあの子が逃げ込んでこなかったとしても、 いずれはこうなるとボクはわかっていた。ぱるぱるだって無能じゃない。
そして、大局を見るのであれば、ボクもあの子の言うようにさっさと逃げるべきなのだろう。でも、そうしなかったのは、出来なかったのは――』

一際強い衝撃がびりびりと空気を揺るがし、テレパシーが一瞬乱れ、飛竜から苦悶の声が漏れる。
俺は急ぎ教会の扉を開く。暗い聖堂内にひと気は無く、唯一一つだけ赤い光差す祭壇の前にぽつんと跪く小さな黒い影があった。
“シスター!”
半ば絶叫のように呼ぶ俺の声に彼女はハッとして振り返り、
〈あなた!〉
負けないくらい大きな声を上げ、俺のところに駆け寄って抱きついた。


〈もう、駄目なのかと……良く無事で……!〉
腕の内に感じる温かさと確固たる感触。互いの無事を、確かにそこに在る事を確認するように、苦しいくらいに強く強く抱き止めた。
“みんなはどこに?”
惜しむように身を離し、尋ねる。
〈一足早く地下室へと避難していただいています。気休め程度かもしれないけれど、地上よりは安全だろうと。逃げてきたのはあなたで最後?〉
俺は頷き、教会に辿り着くまでの事を彼女に話した。
村の様子、スカーとの邂逅、それから、ゾロアークの事。
彼女はぶるぶると震える口をぐっと噛み締め、フードを引き下げて目元を隠した。
〈……私達も、地下へ急ぎましょう〉
感情をこらえるように彼女はぎこちなく言って、俺を支えて歩み出した。
〈そう、私からもあなたに話しておかなければならない大切なことがあるの〉
地下室のある物置まで歩みながら彼女は切り出す。


“それは?”
〈私達の子どものこと。ごめんなさい。こんな重大なこと、あなたがいない間に決めてしまって。けれど、もしもこのまま私達の身に何かがあったとしたら、あの子は……。牧師様や皆さんと相談し、私は他の子達と共にあの子をミュウさんの御友人の――〉
彼女が言い終えぬ内に、再び強い衝撃が空気を揺らす。
――『もう……ない――……――逃――ッ!』
途切れ途切れで不明瞭なミュウのテレパシーが届いた。
直後――スローモーションのようだった――激しい音と共に聖堂全体が歪み、窓のガラスというガラスが粉々になって宙に舞い散り、砕け崩れた天井の瓦礫が、俺と彼女に向かって降り注いできた。
俺は彼女を庇おうと身を乗り出そうとする。
しかし、それよりも早く彼女は俺を突き飛ばし、守るように俺の上に覆いかぶさった。
瓦礫が地を打つ轟音と共に、意識は暗闇へと沈む。


熱を感じた。それはじりじりと身を焦がし、どんどんと強まっている。
においがした。それはとても馴染み深く懐かしく、だからこそ忌々しくおぞましい――炎のにおい。
加速度的に意識が引き戻され、朦朧とした頭で仰向けに倒れたまま首を左右に見回す。
目に映るのは煌々と照りながらごうごうと踊り狂う紅蓮の炎と、炎の依り代とされぶすぶすと黒く焼け爛れていく瓦礫の山。
それらに囲まれた中に俺は居た。
そうだ、シスターは、彼女はどこに?
名を叫ぼうとするが煙で喉がむせ返り、腹を何か重みに圧迫されているせいで、大きく声が出せない。
その時、俺の腹の上辺りで小さなうめき声がした。
身悶えるような激痛を堪えながら首を起こして確認すると、腹にはうつ伏せに倒れるシスターと、更にその上に下半身を覆うほどうずたかく積み上がる瓦礫の山が圧し掛かっていた。
〈あなた、無事……?〉
苦しげに息を吐きながら彼女は言う。
その光景は、今まで見てきたどんな凄惨な戦場よりも俺には絶望的に映った。
血の気は一瞬で失せ、顎ががたがたと震え、声にならない声が漏れた。
〈これ以上、崩れる前に逃げて……早く〉
“あなただけでもって……君は……?”
〈私は、駄目。足と尻尾が瓦礫の中で完全に挟まれてる……。あなたは、私の分、少しは動けるでしょ……?〉


彼女は上体を懸命に起こして少し浮かせる。確かに強引に身を捩れば、俺だけなら抜け出せそうだ。
でもそうしたら、彼女はどうなる?
“駄目だ、駄目だよ。そんなことできない。逃げる時は君と一緒じゃなきゃ、俺は嫌だ”
だけど、俺はぶんぶんと首を横に振りながら言った。まるで子どもが駄々をこねるように。
〈言うことを、聞きなさい!〉
彼女は残る力を振り絞るようにびりびりと体に帯電させ、びしりと俺を叱咤した。
彼女が電気を出してまで怒ることなんて、俺は片手で数えられるほどしか見た事はない。
びくりと俺は萎縮する。
〈早く、このままじゃふたりとも……お願い……〉
ぐ、と俺は目を閉じ、血が滲むほどに口を噛み締め、彼女の下から体をゆっくりと引き抜いた。
俺が抜けた分、瓦礫のバランスが少し崩れ、ぱらぱらからころと小さなかけらが落ちてくる。
俺は彼女の上の瓦礫をどかそうとした。でも、どんなに力を振り絞ったって、瓦礫は鈍った俺の力ではびくともしなかった。
〈無理よ……離れて、上、すぐに崩れる……〉
上を見ると、ぐらぐらと今にも支えが燃え尽き、落ちてきそうに揺れる鉄塊――それはかつて教会の屋根の上で燦然と輝いていた、神に加護を祈る為の十字像だ。
皮肉にもそれが今、俺達に仇なそうとしていた。


“俺を、俺をひとりにしないでくれ……”
諦めずに瓦礫を押し上げようとしながら、縋りつくように彼女に言った。
頬をぼろぼろと雫が伝う。
〈大丈夫。あなたはひとりじゃない……生きてさえいれば、会える。いつか、また、必ず、あの子に……だから、生きて〉
“わからない、わからないよ、――。君の言っていることが。駄目だよ、君も助からなきゃ。二匹で、いや、三匹で手を取り合って生きていくって約束しただろう!?”
〈……不思議、こんな時でも、怖くないの。全然って言ったらウソになるけれど……でも、あなたが、あの子が、一緒にこれから先も、生きていてくれるなら……どこかで笑顔で笑い合っている姿を思い浮かべれば……それを直接見れないのはちょっぴり悲しいけれど――平気。お父さんとお母さんも……私を庇ってくれた時、こんな気持ちだったのかな……?〉
我武者羅に瓦礫を支え続ける手に血液が滲み、ぼたぼたと滴った。
〈最後……もう一度言う。あなたは生きて。敵討ちとか、後を追うとか、いらない。あなたは生きるの、いいわね〉
俺に有無を言わさぬように彼女の頬から精一杯の電流が迸り、バチンとスパークした。
衝撃で俺は弾き飛ばされ、彼女から突き放される。

〈さよなら――〉

穏やかに、儚げに彼女は笑んだ。スッと頬に一筋の涙が伝う。
次の瞬間、俺と彼女の間に十字の像が突き立ち、伴って雪崩のように崩れ落ちてきた瓦礫の一つが俺の眼前ぎりぎりに鋭い破片を突きつけて止まる。
ふら、ふら、と俺はへたり込み、激流の様な叫び声が喉を焼くのも構わず俺の口から溢れた。


――綿の抜けた空っぽの人形が火にくべられている。
散らばる割れたガラスに反射する己の姿はそんなふうに見えた。
嵌め込められているだけの曇ったビー玉のような目で俺は俺を視界に映していた。
空虚にただ意味も無く『生』にしがみ付いていただけの俺に、生きる意味を意義を与えてくれた村と村に住む者達。
そこに招き入れ、俺を支え続けてくれていたシスター。
俺にとっての全てであったものと、その中核、礎、芯となっていたものをことごとく失った。
目の前で、むざむざと。死ぬべきは俺の方だったのに、代わりとなって。

ずる、ぺた……ずる、ぺた……。
ぐちゃぐちゃに湿っている柔らかい何かを引き摺りながら、ゆっくりと俺に這い寄る気配を感じた。

ずる、ぺた……ずる、ぺた……。
炎が燃え盛りばちばちと爆ぜる中においても、その音は鮮明に届いた。

――『全身真っ黒に煤けて、手足の先はボロボロ……随分とひどい格好をしているじゃあないか。ボクもひとのこと言えないけれど』
背後で蠢く者は直接俺の頭に声を投げ込み、言った。

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