第44章 - 16

木々に、でっぱり石に、ノロマなトカゲども、並み居る障害物を掻い潜り、斜面を下りきってもしばらくボードは勢いを残して滑り続ける。
教会に近付くにつれて、薄っすらと煙のようなものが周囲に漂い始めた。炎による煙とは違い臭いは無く、霧のようではあるが湿り気を感じない。
まるで実体が無いような、奇妙な感覚だ。更に進んでいく内にボードは徐々に減速し、霧らしきものは濃度を増していく。
ボードが完全に勢いを失って止まってしまうと、辺りは数メートル先もろくに分からない程になっていて、目の前には一段と分厚い霧の層が行く手を阻む壁の如く渦巻いていた。
こんな濃霧が立ち込めていれば、遠目から見た時にでも気付くだろうに。
不可思議に思いながらボードから降りて足を離すと、途端にボードは粉々に砕け散り、俺も膝からがくりと崩れる。随分と無茶をした、薬が後どれだけ体を騙していてくれるか分からない。切れた時にはそれはそれは大層な反動が待ち構えている事だろう。立ち止まってはいられない。
あいつらしく実に雑で乱暴なものだったが、思いを託してくれたスカーのためにも。
絶対に無事に生き残るんだ。意を決して、俺は濃霧の渦へと足を踏み入れた。
目と鼻の距離も見えない濃霧の中を歩いていると、周りからはクリムガン達のものらしきギャーギャー騒がしい咆え声と、ドスドスと忙しなく走り回る足音が聞こえてきた。
視界を失い、右往左往しているのだろうか。しかし、俺の足取りは奴らのように迷うことなく、一歩も止まらない。目をつぶっていてでも辿りつけそうな程に慣れ親しんでいた道、村から教会までの帰路。
視界になんて頼らなくても、足が、心が、魂が、帰るべき場所を覚えている。


ある程度進むと霧の最も厚い層を抜けたのか、視界は少し先の物であればぼんやり見分けられるぐらいにまで戻っていた。
その中、どういうわけか仲間同士で争うクリムガンの姿を見かける。
敵味方の判別ぐらいは出来るであろう状況下、二頭は眼を血走らせ、互いに爪や牙を容赦なく突き立てながら取っ組み合っていた。
奇行に及ぶクリムガンはその二頭だけではない。何かを追い払うようにして虚空に向かって腕を振るい続ける者、地面を転げる者、逃げ惑う者。
異様な光景だった。皆一様にわけのわからないことを呻きながら、必死の形相を浮かべている。
一体、何が起こっているというのか。
傍から見て何も無いというのに、奴らは見えない何かに抗い、悶え、怯えている。
まるで幻覚でも見ているような――そうか。
はたと気付くとほぼ同じくして、霧の向こうから長髪をたなびかせ駆け寄って来る者の姿があった。
『無事だったか!』
息を切らした様子で、ゾロアークは俺に言った。
“ああ、お前こそ!みんなは、他に無事な者達は?”
少し息を整えて、ゾロアークは口を開く。
『教会住まいの皆は無事だ。村の者達も幾らか逃げ延びて来て、教会の中に避難させている』


ゾロアークはきょろきょろと俺の傍を見回す。
『ドテッコツじーさんと、木の実園の奴ら、お前一緒じゃなかったか?』
“いや、今日は会っていない。……まさか、まだ逃げて来ていないのか?”
『ああ、姿が無い』
耳に届いた瞬間、喉がぐっと詰まり、胸に刃を突き立てられたような鋭く冷たい痛みが走った。
燃え盛る村と、熱波の波と化した木立の凄惨な光景がありありと脳裏に浮かぶ。
依然、村の方からは竜達の咆哮と空襲の轟音が絶え間なく響いてくる。
恐らく、もう――。思っても、口には出せなかった。
気配で察したか、青緑の瞳が動揺したように揺れ動く。
『俺が、もう少し早く異変に気付けば……!』
ゾロアークは堪えるように眉間に深々と皺が寄るほどに瞼を強く閉じて、口惜しげに赤い爪をわなわな震わせた。
『あのトカゲ共、いきなり村の中に現れた。俺、いつも村の周り、幻の結界張って守ってる。怪しい奴が近付いたら、すぐに分かる。なのに奴ら、あの時は一匹も引っ掛からなかった。俺が駆け付けた頃には、もう村中を荒らしまわっていた』
奴らの不可解な現れ方は俺も目の当たりにしている。何の前触れも予兆も無く、あたかも最初からそこにいたかのようだった。
俗に通信ケーブルと呼ばれる有線を介してポケモンを転送する技術はあの時代には既に人間達によって研究されていたようだけれど、ケーブルも使わず無線で送りたい場所に精確に送る技術なんて聞いたことが無い。


ポケモン、特にエスパータイプに属する者の中に多く、テレポート、瞬間移動能力を持つものがいるけれど、消えたり現れたりする時には何らかの予兆があるものだ。
――例えば、転移してくるその周りの空間が歪んで見えたり、奇妙な光や音が発せられたり、近くにいると耳鳴りや頭痛がしたりだ。
俺は何かが転移してくる予兆を感じ取る時、何と言うか胃がぐいと押されるような独特の“胸焼け”みたいな嫌な感覚を覚えるな。
でも、奴らが目の前に現れた時、そういったものが一切、微塵も感じ取れなかった。
科学の力にしろ、何らかのポケモンの力にしろ、尋常ならざるものだ。
ミュウが仄めかしていた、人知もポケモンの力も超えた存在、関与。
事実であるならば、その者達が陰で引く繰り糸の一本を俺は垣間見たとでもいうのだろうか。
『だが、安心しろ。もう、誰一人一匹たりとも失わせない……今度こそ、俺は守る!』
ゾロアークは決意を込めた哮り声を上げ、霧の向こうからがむしゃらに駆けてくる数頭のクリムガンを鋭く見据えた。
『目、なるべく細めろ。直視するな』
そっと俺に言って、ゾロアークは両手を地に付ける。
その瞬間、地面が赤々と輝き出し、グラグラと煮立ち出した。
でも、まるで熱さは感じない。
幻影だ、すぐに俺は理解する。
熱したチーズのようにどろどろの地面から鋭利な爪の生え揃う巨大で太い腕が突き出、肉厚の赤い甲殻に覆われた頭部と爛々と輝く目が覗き、見る見るうちに、見上げなければ頭の先まで見えないような大怪獣が這い出てきた。


幻影だと分かっていても、その名も知らぬ化け物の溶岩を滴らせながら煌々と照る熱せられた岩のような表面、巨木の幹のように野太い手足と尾、何より圧倒的な巨躯には畏怖を感じられずにはいられない。
クリムガン達も自分達よりずっと大きい怪物の姿を目にし、呆然と立ち止まる。
あのペンキをぶちまけたような赤っ面がどことなく青ざめてさえ見えた。
ゾロアークが咆え真似をするのに合わせ、巨獣が地鳴りのような唸り声を上げる。
呼応するようにそこかしこの地面から溶岩が噴水の如く吹き上がった。
幻だというのに、その鮮明さに脳が錯覚を起こし、熱気を感じる。
溶岩を避けて散り散りになるクリムガン達の一匹に巨獣は狙いを定め、掲げた腕を思い切り振り下ろす。その様はまるで天から巨大な岩盤が崩落してきたかのようだった。
巨獣の動きに合わせ、ゾロアークは両腕から暗い紫の波動を迸らせながらそのクリムガンに飛び乗り、鱗の比較的薄い首の付け根辺りを狙って至近距離で波動を炸裂させる。あたかも本当に巨獣に押しつぶされたかのようにクリムガンは地面に突っ伏して倒れ、残るクリムガンは戦々恐々、尻尾を巻いて逃げ出した。
追い討ちにゾロアークはクリムガン達の背に向かって巨獣と共に火炎放射を吹きかけた。
『ふん、奴ら、力だけ。頭脳はマヌケだ。お前達だけは、俺が必ず守る。陸のあの赤っ面トカゲ共はこの通り、教会には絶対に近付かせない。空の羽トカゲ共は奴らよりずっとずっと厄介だが、ミュウがどうにかしてくれている』


“ミュウが?”俺は首を傾げる。
幾ら並ならぬ存在とはいえ、あんな俺と同じくらいちっぽけな体一つで――外見でポケモンの戦闘力を判断するのは愚かしい事だというのは重々承知しているが――大勢の竜達を相手取ることなんて出来るのだろうか。
『信じてないか?あいつは強いぞ。俺の幻影は形だけ、ニセモノ。力は無い。でもあいつの変身は、ホンモノ。同じだけの力出せる。あいつ、どんなポケモンにだってなれる。昔、あいつに色んなポケモン教わった。この超古代ポケモン”グラードン”も、その一つ。こいつは大昔、暗雲払い、光と熱を呼ぶ力で、大水に苦しむ者達守った』
ゾロアークは俺の肩に手を置く。
『生きてさえいれば、いつか必ず報われる。嫌いな言葉だった。嘘っぱち、キレイ事だと思っていた。故郷追われ、ずっと一匹、バルジーナが頭の上で飛び交い、ノクタスに付け狙われながら荒野彷徨うのは、辛かった、苦しかった。父、母と一緒に、焼け死んだ方がずっとマシだったと思った。でも、この村の者達の優しさ、嘘じゃないって教えてくれた――』
グラードンの幻影がずしんと尻尾で地面を叩く。霧にトンネルのような穴が開き、その先に教会が見えた。
『俺、お前に辛く当たった。二度と消えない傷つけて、体の自由も奪って。それでもお前、諦めなかった。どんなに惨めでも、辛くても、食いしばる。生きてさえいれば報われる、キレイ事じゃない。乗り越えてきたお前の姿見て、思った』


ゾロアークは俺を送り出すようにそっと肩を押す。
『行け。背後は任せろ。お前の背に、もう傷は二度と付けさせない』
“ありがとう。……無茶はするな”
礼を言い、トンネルに踏み込む俺の背に声がかかる。
『あいつら全部追っ払ったら、俺、この村建て直す。全部一からだろうが、諦めない。その時は、協力してくれるか?』
“来年の今頃には、出来立ての木の実の採れ立てを振る舞ってやるよ”
『……楽しみにしてるぞ』
淡い未来への展望を抱いて、硬く強張り続けていた口角が微かに上がった。
背中合わせで分からなかったが、きっとゾロアークも同じだったろう。
しかし、それを滅茶苦茶に、容易く打ち砕かんとする者が迫っていた。
クリムガンのそれよりも遥かに機敏に、鋭く地を蹴る音が霧の奥より届く。
『懲りずに来たな!』
ゾロアークは即座に反応し、グラードンの幻影を嗾けて、自身も攻撃に備える。
だが、足音はまるで怯む気配無く、殊更強く地を蹴る音と共に、一寸途切れた。
一転、切迫した様子でゾロアークが上方を見上げる。そして素早くその場から身をかわした直後、霧とグラードンの頭部を貫いて足跡の主が豪快な音と共に降り立ち、ゾロアークが寸前まで居た地を赤い刃先が深々と穿った。
『斬った応えが微塵も無い。やはり、まやかし』
ぐるん、と首を大きく振り回して牙に付いた土埃を払い、翼の無い金色の竜は言った。


赤い両の目が霧中にゆらりと残光残し、俺とゾロアークを見据える。
首をもたげて見下ろす姿は、斬首斧振りかざす処刑人の如く。
たちまち首元に鋭利な寒気を感じ、足は凍りついたように固まった。
怖気を撥ね退けるように、即座にゾロアークは両腕に黒紫色の波動を走らせる。
“ゾロアーク、駄目だ――!”
そいつと戦っちゃいけない。ここまで追いついてきたという事は、きっとスカーも既に……。
曲がりなりにも現役の軍用ポケモンであり、相性の上でも有利だった筈のスカーでも及ばなかった化け物が相手ではかないっこない。
しかし、制止は届くことなく、迸る衝撃波がオノノクスに向かって放たれた。
追従して、グラードンの幻影も腕を振り回す。爪が地面を抉って捲くり上げ、土埃が雪崩のように迫るさまは例え幻だと分かっていても抗い難い怒涛の勢い、凄みがあった。
それを前にしても、オノノクスは動じずに構え、ぐっと口をへの字に結ぶ。
嘲笑っているようにさえ見えた。オノノクスはまるで余興にでも付き合うように上半身を大きく後ろに仰け反らせて構える。
そして、目前にまで迫るグラードンの爪と衝撃波に目掛け、溜めた力が一気に解き放たれた。
その瞬間、奴の体が、振り下ろす牙斧が、何倍にも大きくなって見えた。
おぞましい程の気迫、濁り無い純粋なまでの殺気が場を支配し、幻影を、ゾロアークの精神までをも屈服させていた。
走る一閃。


衝撃波は剣圧の前に軽々と掻き消え、幻影である筈のグラードンの体が真っ二つに両断されていた。
くぐもった呻き声と共にぐずぐずと崩れていくグラードンを呆然とゾロアークは眺める。心が折れかけ、ひびの入る音がこちらにまで聞こえてくるようだった。
隙を突き、オノノクスは降ろしたままの牙を地で滑走させながら距離を詰め、ゾロアークが気付いて飛び退こうとするよりも早く、振り上げる返し刃が黒い胸元を斬り付ける。
『主君に代わり振るう我が刃の前に、まやかしなど通じぬ。例えまやかしではない真の古代獣が相手であろうとも、我が刃、我が大忠義、我が主君の荘厳美麗剛健たる金剛の身が如く、一点の曇り無く鈍ること無し!』
蹲るゾロアークの前で、オノノクスは勝ち鬨の如く咆哮を上げる。
“ゾロアーク!”
叫ぶ俺に、ゾロアークはハッと耳を立てた。
とどめに振り下ろされた爪をゾロアークは紙一重避け、素早くオノノクスと距離を取る。
『来るな、お前は教会に行け……!』
がくりと再び膝をつき、苦しげに胸を押さえながらゾロアークは言った。
“でも……!”
『つべこべ言うな、行け!俺は平気だ、背後は守る、必ず。だから、絶対立ち止まったり、振り返ったりするな、いいな……!』


俺が最後に見たゾロアークの表情は優しい笑顔だった。
儚く、今にも消え入りそうなほどに。
前にも一度だけ似た表情を見た事があった。あれはいつの日だったか。
子ども達を周りに集め、あいつは幻影の光をまるで花火のようにして見せてやっていた時があった。
色とりどり踊る火花に目を輝かせ、歓声を上げ、浮かれる子ども達。それを見つめるゾロアークの顔はとても穏やかで優しいものだった。
(俺が見ていることに気付くと、すぐにばつが悪そうに顔をむくれさせてしまったけれど)
いつも不機嫌そうに顔をしかめている姿しか俺は殆ど見た事が無かったから、とても意外な面に思えたけれど、あの表情こそが彼の本質だったんだろう。

俺は霧中をがむしゃらに走った。ろくに言うことを効かない手足を半ば引きずるようにして。
背後からは二匹が争う激しい音が未だ響いてくる。それでも俺は振り向かなかった。
実体の無い霧の筈なのに、頬の体毛が少し重たく感じる程に水分を吸って濡れていた。

- 150 -
スポンサーリンク
スポンサーリンク