第39章 - 7

「けっこ~でっかかったね~!トバリしゅーへんが、しんげんちだって~」
治まって数秒後、二階でテレビを見ていたムウマージが天井をすり抜けて逆さまにひょっこりと顔を出し、番組の途中で流れたのであろう速報を伝える。
ミミロップはぼろぼろと涙を溢れさせ、耳の先で顔を覆ってその場に泣き崩れた。
「大丈夫、大丈夫ですよ。トバリは海を挟んでいるとはいえハードマウンテンに近い場所ですし、近くで地震くらいあっても不思議じゃありません。あの悪運の塊のようなピカチュウさんがちょっとやそっとでどうにかなるわけ無いって、ミミロップさんもご自分で言っていたじゃないですか妙に不安なのは、きっと心配しすぎて疲れているからですよ。今日はもう休みましょう、ね?」
自身にも言い聞かせるように、ロズレイドは励ましの言葉をかけた。

真っ暗闇。音も無く、温度も無く、肌に触るものも、もう何も無い。
感じられるものは、既に殆どが溶けるように散って無くなってしまった。残るのは虚空に沈む、浮かぶ、金色の腕輪。
それに微かにこびり付いて残っている意識。それが、それだけが己だ。
己は何だったのか。たった一つはっきりと思い描けるのは、周りを白い毛並みに覆われた黒い顔。
これが己だったのだろうか。いや、違う気がする。恐らく、己がまだはっきりと己だった時、大切だったものだ。
きっと己は最期にこのものを守ったのだ。思い描いた時に僅かに感ずる安心感、充足感がそれを伝える。
何も未練は残っていない。あってももう思い出せぬだけかもしれんが、もう、いい――。
『おいおい、どんな新入りが来たのかと思ったら、一体どうして君がこんな奥底に?』
消えゆく己の意識に、別の意識が触れた。


糸のようにほどけて散ろうとした己の端を、ぐいと掴まれ引き寄せられる。

『やれやれ、希薄になっちゃって。年長者より先に若い奴が逝くんじゃあない』
己を繋ぎ止めるは誰ぞ?
『しっかりしてくれよ。こんな時は君はもっとずっと生意気に、“まだ成仏してなかったのか見知らぬ悪霊め。俺から離れろ”とでも、言ってくれるところだろう。なあ、ピカチュウ』
ピカ、チュウ?馴染みのある響き。己の何かが脈打った。
ピカチュウ。繰り返してみれば、より鮮明に染み渡り、馴染む。実に良く馴染む。
ああ、そうだ、そうだった。馴染んで当然。それが己――いや、俺だ!
途端に失いかけていた思考や記憶が激流のように押し寄せ、空っぽだった意識になだれ込んでくる。
『うん、それでいい。久しぶりだな。俺のことも思い出してくれたかな?』
……このずけずけとした馴れ馴れしさ、思い出したぞ。シルフビルの戦いで俺の体を乗っ取りおったあの悪霊だろう。
『……まあ、それも間違ってはいないけれど』
ひどくがっかりとした気分が意識に伝わってくる。
が、俺の知ったことではない。まったく、気持ちよく成仏しようとしていたところを邪魔してくれおってからに。
『おや、随分とあっさり最後を受け入れるんだね』


ふん、お前のような悪霊と一緒にするんじゃあない。自分がどうなったかくらい理解できている。
あんな瘴気の塊のようなものに押し潰されては俺の体など一溜まりも無かっただろう。
だが、アブソルだけは守れた。俺にできる限りの事はした。もう未練は無い。
『呆れたな、本当にそうかい?』
何が言いたい?
『君はまだ何も守れちゃいないし、何も出来ていない。聞こえないのか?』
音一つ無いと思っていた暗闇に轟く咆哮。同時に鋭い光が闇を切り裂き、差し込んできたのを感ずる。
見上げると、遥か上方にひび割れのような穴が開いていた。隙間から垣間見えるのは、満身創痍のパルキアとギラティナの姿と、もう一つ――あれは、あの巨大な光は、アブソル……?
『かわいそうに、あんなに泣き叫んでいる。あれを見ても同じことが言えるのか?』
――ッ! だがどうしろというのだ! 最早、俺には文字通り何一つ残っていないのだぞ!?
『腕輪がまだあるだろう。何一つ無いところから何かを創り出すその腕輪が』
おい、まさか……。馬鹿を言うんじゃない!俺に出来ることなど精々蔓を生やすくらいだ。そんなこと不可能に決まっている。
『やってみなけりゃ分からない。ここは生と死の狭間。失った命が辿り着き、また新たな輝きを得て戻っていく場所だ』
そんな所業、許されるはずが無かろう……!
『お前は帝王になるんだろう?帝王が誰に臆し、許しを請う必要がある?さあ、しっかりと思い描くんだ。世界にいずれ知れ渡らせる自分の姿を。黄色い顔に真っ赤なほっぺ。長い耳とぎざぎざ尻尾。誇りある我らが姿をってね』


ざわ、と胸の奥が揺らいだ。
“帝王”。磐石不動、絶頂の存在。何者にも何事にも退かず、媚びず、省みない。
最上、至高、並ぶもの無き万物の頂点ッ!
くく、ふふふ……巧く乗せてくれるではないか。
『ああ、君を乗せるのなんて昔から慣れたもんさ』
そうだろう、そうだろうともさ。全く以って心地よく懐かしい響きよ。
見るがいい。見せてやろう、我が成長した姿を!
一段と強い脈動。高ぶり唸る金の輪に意識の手を通せば、硬く細い芯が指の先端から貫き入り、腕を通り、体へと伸び広がっていく。
やがて全身に行き渡った芯の上を、今度は生温かい布状のものが覆い包んでいった。
同時に味わう、全身傷だらけで塩水に放り込まれたような痺れ、熱、到底言い表せぬ痛み。
しかし、後退はなし。前進あるのみ。この程度、己の苦痛を制せず何が帝王、どうして生死の道理の逆を行けようか。
苦しみを耐え、千切れそうなまでに引き絞っていた全身に更に渾身の力を加え、耳から尾の先までを包み終えた瞬間、
「――ぅおおおおおッ!」
息を吹き返した喉が、体の奥底から雷鳴の如く雄叫びを打ち上げた。
持て余した青い電気の帯が、ばちばちと黄色い体毛の上を舞い踊る。
「ふは、ふはははは!取り戻したぞ、我が肉体!」


「お見事。立派だ、本当に」
全身の感覚を確かめる俺の背に、声がかかる。
「ふ、ふん、当然のこと。言われなくても分かっている。誇るが良いぞ」
振り向かずに俺は答えた。背後の声がくつくつと笑う。
「悪態をつく元気もばっちりだ。じゃあ、後はやることは一つ。上の子に届けるものがあるだろう」
声と共に、後ろから溶け残っていたらしきマントの切れ端が丸められて投げ渡される。
拾い上げて開いてみると、中から赤い木の実が一つ転げ出た。
「……ああ。だが、一つじゃ足るまい」
木の実をきゅっと握りしめ、腕輪の力を呼び起こす。甲高い金属音と共に腕輪から緑色の光が握る手に流れ込み、中で木の実が弾けそうな程に震えた。
俺は手をゆっくりと開き、木の実を足元近くに転がす。
木の実は振動を止めず、直ぐに硬そうな皮を突き破って芽が飛び出した。
そのまま芽は成長を続け、上方のひび割れに向かって伸び上がっていく。
「また話せたどころか、姿も傍らから見れた。俺はそれだけで十分だよ」
「そうか」
そっけなく答えて、俺は伸びようとしている枝の一つを掴み、しっかりと足をかける。
「おやおや?もうすぐお別れなのに、今度は泣きべそかかないのかい?」
「誰が泣いてやるものか。男の別れ際に涙はいらん。そう言ったのはお前だ。だから、もう心配はいらない」
「……そっか、そうだな。強くなったもんな」
満足そうに、しかし少し寂しげに声が笑うのが聞こえる。
思わず、ずっと秘めておこうとした言葉が胸の奥で疼き、喉をちくちくと突いた。
「か、感謝する。我が記憶に微かに残る偉大だった背の心地に重ね、お前、あなたに最大限の敬意、敬愛を表す」
「堅苦しいな」
「ええい、ありがとう!お――」
めきめきと大きな音を立てて爆発的に木は成長し、枝に掴まる俺の体は上へ上へと押し上げられていった。


伸びゆく枝葉のざわめきに、俺の最後の言葉は掻き消された。
天にも届けとばかりに成長を続ける木は、やがて空間を埋め尽くす程の大樹となり、ざわざわと葉を茂らせ、満開の花を咲かせ、たわわに実を結ぶ。
枝と共に上昇する俺の脳裏に、忘れていた――いや、忘れさせられていたというべきか――
おぼろげな記憶の断片が、熟し切った赤い実の如く弾け飛ぶ。
かつて、敵からも味方からも「黄色い悪魔」と恐れられた、残忍で冷酷な戦士。
一介のライチュウとなるよりも、最強のピカチュウとして君臨する事を望んだ覇者。
そして……自分の命と引き換えに、自分の大切なものを守り通した大きな背中。
誰よりも力強く、誰よりも誇り高く、誰よりも心優しき……
――それが、俺の――その全てが、俺の――俺の――――
自分でも無意識のうちに、目から大粒の雫がぼろぼろと零れ落ちていく。
違う。涙ではない。汗だ。熱き魂に触れた、心の汗だ。
それを払い落すように俺は頭を左右に振り、勢いを付けて枝から高く飛び上がった。
そのまま木の頂上を目指し、太い幹を駆け上がっていく。
ともすれば振り返りたくなる気持ちを押し殺し、俺は遥か上空のひび割れを見上げる。


今一度、鋭い閃光が轟き、怒りに……悲しみに満ちた咆哮が響き渡る。
「止めるんだアブソル!……アルセウス!」
徐々に重なっていく二つの白い姿に向かい、俺は思わず叫んだ。
このままでは、アブソルの存在が消滅してしまう。いや、そればかりではない。
もし……負の感情に囚われたまま、アルセウスが覚醒してしまえば……
この世界も、神の存在すらも危うくなってしまうのだ。
だが、現世との隔たりは未だに大きく、俺の声は届きそうにもない。
それならば――
俺は再び、腕輪に気を集中させる。
生死をも越えた帝王たる俺に、もはや不可能などある筈がない!
高い金属音と同時に、黒の球体から暗闇のような靄が流れ出す。
靄はマントの切れ端に纏わりつき、みるみるうちに切れ端は元の形を取り戻した。
それをいつも通りに羽織り、俺は更に念を掛けた。
空色の球体が淡く光り、俺の周囲に一陣の風が巻き起こる。
その風をはらみ、ドンカラスが羽を広げたように、バサリ、とマントが大きく翻る。
「目を覚ませ!俺はここにいる!俺は決してお前を裏切らん!俺の人生が俺のものであるように……お前の人生はお前のものだ!」
俺は漆黒の翼を背に、風を捉えて空中へと舞い上がった。


ギラティナは言った。
世界は大きな幼子のようなもの。
手を引いて導いてやらねばすぐに転び、道に迷ってしまう。
だが、奴は大切な事に気付いていなかった。
幼子はいつしか逞しく成長し、親の元から旅立っていく、という事を。
そして、自分の足でしっかりと大地を踏みしめ、自分の道を歩んでいく。
たとえ大きな壁にぶつかったとしても、自分の手で乗り越えていかねばならないのだ。
それが、未来を託す親の願いであり、希望を託された子の使命である。

――なあ、そうだろう?

俺は、心の中で、あの懐かしき面影に呼び掛ける。
遥か遠くに消えていく意識が、微かに……だが、確かに頷いた……

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