第39章 - 5

光を潜り抜けてパルキアが降り立つと、足元がめきめきと乾燥した音を立てた。
何事かと手の内から見下ろすと、床には樹の幹らしきものが這い、そのまま地から天までぐるりと見渡してみれば、目の届く限り至る所が成長した古樹に覆われていた。
隙間から僅かに垣間見える、不可思議な模様の刻まれた石壁や石畳だっものらしき石片が、時の力の偉大さを讃え、または無情さを嘆いている。
神さびた領域の中心で威風堂々と鎮座するは、黒に近いくすんだ濃紺色をした鋼の鱗に全身を守られた竜。
パルキアにも劣らぬ巨大な身体と長い首を丸め、どこか無機質で規則的な寝息を立てている。
その姿を見下ろして、パルキアはぐるると喉を鳴らし、大きく息を吐いた。
「この大事に、惰眠を貪っている場合ではない……目覚めよ」


「――目覚めよ」
冷たい声に目が覚めたのは、同じくらいに冷たい石の床の上だった。
――ここは、どこだろう。
瞼の重たい目を白い足の毛にこすりつけてから、声の元を探してゆっくりと身体を起こす。
「何も知らず、呑気なものだ」
再びの声に振り向いた先に居たものを見て、飛び上がりそうなほどに幼い白い獣は驚いた。
とても大きな蛇とも虫とも違う銀色の怪物が、とても怖い顔をしながら真っ赤な目でこちらを睨んでいる。
「責からは逃れられんぞ、アルセウス」
怯えて震える白い獣に、銀色の怪物は容赦なく冷徹に言葉を浴びせる。
その中でふと、自分の事を指しているらしき呼び名の違和感に獣は気付き、同時に不思議と震えが治まった。
「君もボクをそう呼ぶんだ。でも、違うよ。ボクはアブソル。ねえ、ここはどこ?みんなは?」


「覚醒が不完全であったか」
ひそりと呟くと、怪物は強張らせていた背から伸びる黒い触手達の力を解き、赤く鋭い先端をアブソルから逸らした。
代わりに、僅かながら哀れみが籠もった目で、向けられている直向な視線を見返す。
怪物の目を見て、この怪物はそんなに悪い怪物じゃないのかもしれない――顔は相変わらず怖いけれど、とアブソルは思った。
だって、何だか悲しそうな目をしてる。きっと何か理由があるんだ。
「あの、怪物さんの名前は?」

怪物の触手がぴくりと反応する。
「……我が名はギラティナ。世界の裏、反転した世界の主」
ゆっくりとギラティナは口を開き、幾らか冷たさを和らげさせた調子で答えた。
腕輪は恐らく向こうの方からやってくる。そのしばしの間、この哀れな幼い魂と語らうのもよいだろう。
戯れとして、最期の、せめてもの慰めとして。

「お前の問いに答えよう。ここは世界の表裏の狭間、戻りの洞窟。お前の仲間達は無事だ」
アブソルはほっとする。やっぱり、あまり悪いポケモンじゃないみたいだ。何より、みんなが無事でよかった。
少し落ち着いたところで、アブソルは自分の今いる場所を首の動く範囲で興味深そうに見回してみる。
すごく大きい部屋だけど、暗くてじめじめしてて、まるでお墓の中みたいだ。


「ギラティナさんは、ずっとここに居るの?」
「ああ。殆どこの場を離れることはできぬ」
「え、どうして!?」
誰かの住処にとやかく言うのも失礼とはアブソルは思ったが、こんな暗い場所にずっと独りで居るなんて、辛いに決まっている。
かつて、ピカチュウに助けられる前、自分もそうだったように。

「私には役目がある。世界を維持するとても重要な役目なのだ」
「誰とも交代もしないの……?」
「代わりなどいない。永劫に近い時を、私は――む?」
言いかけて、ギラティナはアブソルの瞳がうるうると滲んでいる事に気づく。
「どうした、まだ私のこの姿が恐ろしいか?ううむ、だが今更仮の姿をとるのは――」
泣く子には神でも勝てず、たじろぐばかりのギラティナに、アブソルはぶんぶんと首を振るった。
「違う、違うよ。だって……だって、ギラティナさん、かわいそう……」
「かわい、そう?」
理解の範疇を超えた予想だにせぬ言葉に、ギラティナはぎくしゃくと首を傾げる。


「独りでいるのは寂しいよ。僕も一匹で閉じ込められていた時、とても心細かったもの」
「私は孤独と思ったことなどない。お前が気に病むようなことではないよ」
「本当に?」
「本当だとも。だから、気を静めよ」
アブソルは小さく頷いて、目を拭った。
――この私が、翻弄されている。
役割りを課した張本人の生れ変りとも言うべき存在に、何も知らぬとはいえ逆に同情されるなど、ギラティナにもまったく形容しがたい妙な気分だった。
だが、いずれは自ら手を下さねばならぬ相手だ。
余計な情は、抱くまい。ギラティナは己に言い聞かせる。
「ところで、アルセウスさんって、誰なの?ピカチュウもギラティナさんも最初にボクの事をそう呼んだから、ずっと気になっていたんだけれど」
「世界の創造主――生みの親だ。私もまた、アルセウスに創り出されたものの一つ」
「ボクってそんなすごいポケモンと見間違えられたんだ。アルセウスさんは、どうしているの?」
「アルセウスは、奴は果たすべき責任を放り、深い眠りについた」
「あの、何があったの?」
押し込めきれないギラティナの暗く冷たく滾りだす怒りを感じ取り、恐る恐るアブソルは尋ねた。
「世界は言わば、奴の子だ。親であれば当然、子を守り育てていく責任がある。私もそれを出来うる限り支えて来た。だが、奴は捨てた。捨てたのと変わらぬ」
ギラティナの触手が、わなわなと揺らめく。
「……すまぬな。お前に罪は無い。お前も奴の被害者だと言えるのに」
怯えて萎縮するアブソルの姿を見て、我に返った様子でギラティナは言った。
「どういうこと?」
「最初から、誰も見間違えてなどいない。アルセウスは、お前だ。お前の中に眠っているのだ」

「えっ――」


「協力は出来ぬ、と?」
目覚めたディアルガに、パルキアはギラティナの暴走を伝え、助力を求めた。
しかし、ディアルガの答えは否定的なものだった。
時は、如何なるものにも左右されず、乱れることなく平等に流れ続ける。
己はどちらにも深く与する気はないと、ディアルガは告げた。

「日和見主義者に成り果てますか、ディアルガ。もういい、あなた自身の協力は期待しない。だが、せめて、あなたの護る宝玉を、我が力の源を渡せ」
沈黙するディアルガに、パルキアが苦々しく吐き捨る。
「主の望みは尊重して然るべきだ。だが、それ以上に我らの手を無くした世界はどう歩むのか、懸念を拭うことはできないのもまた事実。お前は何を信じる?」
ディアルガの問いに、パルキアはにやりと口端を歪ませ、俺を手の内から放る。

――俺を、手から放る?
「なっ!?」
あまりに唐突に放り捨てられ、俺は為すすべなく素っ頓狂な声を上げる。
直後、ぐえ、と喉が押され、絞まる感覚。パルキアが俺のマントの裾を摘まみ、宙に吊り上げたようだ。
『何をする!』文句を言う間も無く、俺は宙吊りのままディアルガの眼前に向き合わせられた。

「……また“これ”か」
極々他愛の無いものを見る目付きで、ディアルガは俺を見やる。
「ふ、ふん、“これ”とは何だ。寝ぼけて忘れたか、俺はピカチュウ。お前の主の友であり、いずれ世界を統べる者だ」
俺は腕を組んで踏ん反り返り、睨み返した。
暫くの睨み合いの後、やがてディアルガは俺の気迫に観念したのか――馬鹿馬鹿しそうにも見えたのは気のせいだろう。
――重々しく息をついた。突風のような吐息に煽られ、宙吊りの俺の体は激ぶらんぶらんと激しく揺られる。
「主も、お前も、何故この様なものに入れ込むのか……理解不能だ。よかろう、パルキア。宝玉は渡そう。こんな子鼠の助力だけでギラティナを止められるのならば、世界は本当に我らの管理など最早必要としていないのだろう」


「ええ、あなたにも存分に思い知らせてさしあげましょう。して、宝玉はどこに?」
「今に返す」
ディアルガは四足を地にしっかりと突き立て、体の奥底まで染み渡らせるように深々と息を吸い込んだ。
胸部を守る分厚い銀色の装甲の中心に埋まる青白い結晶が灯り、全身に走る半透明な溝を伝って光が血液のように行き渡っていく。
ディアルガに集る力の大きさに、俺は周りの空気ごと見えない大きな渦に掻き回されて磨り潰されるような強い圧迫感を受けた。
パルキアは直ぐに俺を引っ込めて手の内に戻し、ディアルガとの間に線を引くように爪先を走らせる。
すると、急に不思議と重圧は消え去り、目の前のディアルガの姿も、間に何も無いはずなのにガラスか何かを隔てて見ているように感じられた。
光が体の隅々にまで達するとディアルガは背の扇状のヒレを雄々しく広げ、大口を開ける。
その瞬間、全てが捻れた。凝縮された力が捌け口を見つけて一斉に飛び出し、音も、光も、俺とパルキアとディアルガ以外のものは全て左回りに揉みくちゃにされて、捻じ曲がっていってるように感じた。
捻れの中で、周りを覆っていた年老いた木々はどんどん縮こまり、砕けて転がっていた石片達は独りでに集って組み上がっていく。
捻れが静まるとと、古木の海に沈み朽ち果てた遺跡は、豊かな若々しい森を見渡せる小高い塔の頂上と化していた。
ディアルガはやれやれと座り込み、無言で奥の台座を尻尾で示した。不可思議な装飾の施された台座には、乳白色に輝く巨大な真珠のような球体が嵌め込まれている。
「感謝します」
礼を言うパルキアに、ディアルガは大きな欠伸を返事代わりに一つして、体と首を丸めて眠り始めた。
「まったく……。では、改めて参りましょうか、ピカチュウ。四の五の言いながらも、ディアルガもあなたに少し期待しているに違いありませんわ」
当てつけるようにパルキアが言うと、ディアルガは寝息を立てながらどこか不機嫌そうにびたんと尻尾で床を叩く。
「ふふ、安心して眠っていてくださいまし」


「嘘だよ、そんなわけない。だってボク、すごいことなんて何も出来ないもの」
「お前は既に気付いている。己の異質な力に。それが周りに及ぼした影響に」
「そんなの知らない、分からないよ」
動転した様子で、アブソルは首を横に振るう。
「……目覚めさせる過程で、お前の記憶を少し垣間見た。ただのアブソルの子に、長く生きた氷鳥を屠る炎は吐けん。洞窟を丸々飲み込むような大水を呼び寄せるなど叶わん」
「あれはピカチュウが、ピカチュウの付けた腕輪が光って、ボクに――」
「腕輪が力を貸した、それこそ何よりの証拠だ。神と、認められた者にしか神の輪は扱えぬ」
突き付けられた事実の重圧に、アブソルは返す言葉も無く、ふらふらとその場にへたり込んだ。

「ボクは、どうなるの?」
金色をした仮面のような頭部の暗い隙間に宿りかけた沈痛な光を押し隠し、ギラティナは重く口を開く。
「アルセウスを目覚めされば、お前としての記憶、存在は消えてしまうだろう」


――ボクが、消える?
ギラティナの言葉に、アブソルは胸が冷たく鋭い何かを深々と突き刺されたようにずきりと響いた。
消えたら、もうピカチュウ達とも会えない。楽しいとも、嬉しいとも、感じられない。
それが悲しいとすら感じなくなって、何もかも分からなくなって――。
「い、嫌だ、怖いよ……みんなの所に帰してよ……」
考えれば考えるほど、底の無い泥沼に引き込まれていくような、言い知れない恐怖に体が震え、ぼろぼろと涙が溢れていた。

「ピカチュウ達が大切か?」
ひくひくと泣きじゃくりながらアブソルは頷く。
「ならば、尚更帰ることは出来まい。聞け。アルセウス無き今の世界は大きく乱れようとしている。その末に待つのは、混沌と崩壊。お前達を襲ったコピーは前兆なのだ」
びくりと反応し、アブソルはギラティナを見上げた。
「そうだ。アルセウスが健在ならば、ピカチュウ達があんな危険な目にあうことは無かっただろう。お前が力の使い方をもっと誤れば、犠牲は更に大きかったかもしれない。……我らが、ただのポケモンとして仲間と一生を生きるなど、決して叶わぬ。死の定めを持つ者たちが持つ時間は、我らに比べてあまりに短く、脆すぎる。我らが幾ら定命の体を仮に得ても、我らの魂は否応無しに肉体を不滅に近しいものに変える。己だけが取り残され続ける孤独を味わうのだ」

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