第39章 - 4

ちら、とパルキアは倒れている自分の神体を見やってから、再びこちらに目を戻した。
「わたくしの領域へ一体どの様なご用件で?隔たれた空間に偶然辿り着くなどありえないことです。他の神の手引きでもない限りは……」
語り口は一見穏やかだが、内包された威圧がぴりぴりと肌を刺してくる。
一体何から、どう話すべきなのか。慎重に言葉を進めなければならない。
動けずにいる俺に、パルキアは首を伸ばしてくんくんと嗅ぐような仕草をした。
「あなたから嫌な臭いを感じますわ。寂れ果てカビにまみれた墓地のような、とても嫌な臭い」

途端にパルキアの全身から湧き出る殺気にも似た気迫に、ぞくりとして離れようとすると、首の周りの空気が急に固まったような感覚に捕らわれた。
「げほッ――」
首が絞まり咳き込む俺を、パルキアは凍て付くような冷たい目で見下ろす。
「下手に動かないことです。空間の刃が首をいつでも斬り落とせるよう狙っている。一体、奴になんとそそのかされた?」
質問はすでに『拷問』に変わっているのだ。豹変した態度がそれを物語っていた。
背後から巨体がゆっくりと起き上がる音が聞こえる。


とうとう神体が目覚めてしまったようだ。よろよろと不規則に床を踏み鳴らす音が迫ってくる。
「ようやくのお目覚めですか。私が離れていたとはいえ小ネズミに後れを取るなどなんともはや」
俺の後方を見やりながら、ため息混じりにパルキアは呟いた。
「急に襲わせるようなことは致しません。ただ、あなたの口の滑らかさによってはうっかりと拘束が弛む、等といった“事故”も起こるやも」
重々しい息遣いを背にかかるほど近くに感じる。ひとたびパルキアが命じれば、空間の断裂を用いるまでもなく俺の体は容易く引き裂かれることだろう。
目に見える、より分かりやすい脅しだ。

「何も……知らされてはいないのか?」
アブソルに起こった異変すら伝わっていないのだろうか。俺が問うと、無言でパルキアは背後の神体に目配せする。
すぐに後ろから巨大な手が伸び、俺の体はたちまち掴み上げられた。
「質問を質問で返さないこと。余計な手間を取らせないでください。主のご友人であり、私自身も少なくとも愛着をもっているあなたに、こんなことをしたくはないのですよ」
「そのお前の主が、アブソルが腕輪の力を使って倒れたきり、目覚めようとしないのだ。衰弱を治すには、ギラティナは己の力を取り戻す必要があると俺をここに送った」
パルキアは怪訝な表情を見せる。
「力を使って?それは――」
その言葉の途中、急に神体が動き出し、あろうことか自分の持ち主へと爪を振り下ろし襲い掛かった。

「ッ!?」
不意を突かれ、驚愕した様子でパルキアは色鮮やかな扇のようなミロカロスの尾ひれで爪を受け止める。
防がれたと見るや、神体は俺を祭壇の方へと放り投げ、両腕でもってパルキアを押さえつけにかかった。
「私の体にを――!く、おのれ、ギラティナぁッ!」


激流のような激しい怒りの感情をあらわにして、パルキアは全身をのたうたせて抵抗する。
投げ飛ばされた俺は、そのまま祭壇の下にびたんと腹から叩きつけられた。ごほ、と乾いた反吐が漏れる。

「っ……!」
神体はパルキアを押さえつけながら俺の方に首を向け、半ば呻くような声で何かを訴えかける。
その一瞬背けた横顔を、鞭のようにしなる尾が強かに打ちすえた。
宝石の如き外観にその強度も兼ね備えた鱗が、びっしりと隙間なく生え揃う尾の一撃。
太く巨大な石の棍棒で殴られたのと違わぬ強烈な衝撃に、倒れはせずとも巨体の手元が少し弛んだ。

隙を逃さずパルキアは拘束から抜け出し、全身から薄桃色の眩い光を放つ。
光を浴びた神体は苦悶の咆哮を上げて暴れた。
頭を抱える手の合間から黒い雫が一筋零れ、やがて全身の甲殻の隙間という隙間から、体液のように黒い影を噴き出させながら地に伏した。

「汚らわしい。網の目を抜けやすい小さなネズミを介して侵入といい、随分と小賢しい真似がお得意なようで」
流れ出て溜まった影を、冷たい憎悪に満ちた目で見下してパルキアは言い放つ。
「貴様らのやり方に倣ったまでよ。丁度アルセウスが我が領域にそやつを送り込んで来た時のように」
影の”溜まり”がぶくぶくと泡立って声を発した。


泡立ちは収まることなく激しさを増し、塊が一気に地から伸び上がったと思うと、狐のような形となって宙に固まった。
すかさずパルキアは尾を縦一閃。真っ二つに狐の形は裂ける。
が、直後に切れ口から裏返るように九本の触手が一斉に飛び出し、パルキアを襲った。
向かってくる触手達をパルキアは次々と斬り払い、斬り損ねた一本を先程の光を壁のようにして防ぐ。

鍔迫り合いの如く、向き合って二体は互いの力をぶつけて押し合う。
間に巻き込まれれば、俺の脆い肉体などあっという間に粉々にされてしまいそうだ。
「力を取り戻して何を企む、ギラティナ!」
表情を歪めながらパルキアは狐の影――ギラティナの化身に叫ぶ。
「アルセウスを呼び覚ます。滅ぼそうとした次は、管理を無責任に放り出し、
己は眠りにつこうとするなど、そのような身勝手が許されるはずがない……!」


「世界は我らの管理など必要としていない。そう判断されたからこそ主は眠りにつかれたのです」
「なんと一方的な断定か!事実、世界は異常をきたしている。貴様も気づいているはずだ。存在しえなかったもの、起こりえなかったものが既に現れている」
「異常は我らの緊縛から解かれた世界が見出した新たな可能性、成長の過程。世界と、世界に生きる者達が自ら取捨選択し、乗り越えていくべきものです」
「我らの手なくして乗り越えていけるような力があるものか。今の異変は始まりに過ぎない。看過しておけば混沌に没した末、破滅に行き着くは明白よ」
二体の間で爆ぜる火花が尚一層激しく迸り、床を鋭く抉って破片を巻き上げた。
互角に見えていた力の鬩ぎ合いも、やがて既に神体の制御に大きく力を消費していたギラティナが少しずつ押されていく。
「……何をしている、ピカチュウ。宝玉を取り戻せ。世界の危機に二度立ち会ったお前であれば、何が正しいか選択できよう!」

ギラティナの世界への思いは純粋なものなのだろう。だが、それ故にどこか行過ぎたものを感じるのだ。
「お待ちなさい!その二度の危機を食い止める大きな切っ掛けとなったのがピカチュウ、あなただ。何の特別な力もない、ただのちっぽけなネズミであるあなたが、二度。神を、神ですら手を焼いた相手を止めた」
パルキアの言葉が、迷う俺の足を止める。
「最早、世界には我ら神々の手などいらぬ、自身の力だけで歩んでいける。あなたは生き証明といえるでしょう。あなたの存在が、主がお考えを変えられる一番の理由となったのです。そのあなたが主の信頼を裏切るのですか?それに、無理に主を呼び起こそうなどとすれば、アブソルとしての記憶は完全に消え失せてしまうかもしれないのですよ……?」


心に大きな動揺が走る。俺は真偽を問う眼差しをギラティナへと向けた。
真っ黒に塗り潰された狐の面は黙して何も語らない。その沈黙が否定しがたい事実なのだということを悟らせた。

なんと迂闊で軽率だったのだろうか。
ギラティナがアルセウスを目覚めさせると言った時、真の目的を聞いた時、隠し通していた事への憤りと反発を抱く反面で、頭の片隅にギラティナに同調している自分も僅かながら存在してしまっていた。
アルセウスが目覚めれば世界が安定し、異常の無い平静が訪れるならそれは何よりではないか、と。
――アルセウスが目覚めれば、仮の存在であるアブソルがどうなってしまうのかなど考えもせずに。俺は己に嫌悪した。

だが、しかし、また異常が、コピー共のような異質で強力な者達が現れたら、俺は勝てるのか?
この上なく憎らしく、同じ姿をしながら俺のすべてを上回る者。自身の根底から否定されるような劣等感を容赦なく刻み込んでいった。
もうあんな思いはごめんだ。……怖い、怖いのだ。奴らに感じている強烈な拒絶感の正体は、恐れだ。

「見よ、パルキア。あの怯え竦む姿を。奴が世界の言葉を代弁する生き証明だというのなら、あれが真の答えだ。……怖かろう、重かろう。まだお前達だけで背負うには重荷が過ぎるわ。だが、案ずるな。直ぐにその役目、私が代わろう」
ギラティナの言葉が優しく甘く響く。この俺が、怯え果てている――くそッ。
斬られていた尾が再構築を始め、狐の足元に広がる暗闇から揺れ踊りながら伸び上がっていく。
白金の玉が離れていながらも、少しずつ力を与えているのだろう。
数本がかりで光の壁へ尾を突き立てると、忽ち形勢は膠着状態まで押し返された。


「飲まれないで。あなたはそんなに弱くなかったはずだ、ピカチュ――くッ……」
パルキアの胴を、一本の黒き尾が光を突き破って貫いた。壁が儚く霧散したのを見届けると、狐の影は素早く横を駆け抜け、祭壇に飛び乗る。
「これで世界は救われる……。私が護らなければならぬのだ」

ギラティナが鼻先で宝玉にそっと触れると、宝玉の表面から光が消えうせ、内部から今まで見たどんな黒より濃い常闇が溢れ出した。
狐の影は溢れる闇に飛び込んで同化し、祭壇ごと地まで伸びた闇に引きずり込んでいく。
祭壇を飲み込み終えると、闇は排水溝に流れ込む水のごとく中心に渦を巻きながら縮まっていった。
全てが深遠に流れ出ようとした間際、何も出来ず立ち尽くす俺に向かって、渦の中心から一本の手のような触手が伸びる。
駄目だ。最早、俺は避けることすらもままならない……。
諦め、捕られられようとした寸前、黒い手がぼたりと斬れ落ちた。落ちた手はしばらくびたびたとのた打ち回った後、白銀の炎に包まれて灰になった。
「させる……もの、か」
地に伏していたパルキアが首を持ち上げ、虫の息を吐きながら言葉を紡いだ。


渦はそのまま地に滲み込んで消え去り、後にはすり鉢状の大穴だけが残された。
「退いたか……」
呟いて、パルキアはふらりと頭を床に降ろす。駆け寄ると、パルキアは苦しげな息遣いをしながらこちらを見上げた。
「ご無事で……。これで少しは、時間が稼げるでしょう」
「大丈夫なのか?」
「はい。主を完全に呼び覚ますには、あなたの腕輪と――」
「違う、今はまずお前の傷のことだ!待っていろ、たしか傷薬の残りがまだ……」
胴を刺し貫かれたのだ、幾ら神の化身と言えど相当な深手のはず。
マントの裏地の道具袋をかき回すように探る俺を、きょとんとした目でパルキアは見つめた後、可笑しげに――どこか自虐的に、小さく喉を鳴らした。
「この程度で消え去れれば、どんなに楽なことでしょうか」

怪訝に思って見つめる俺を尻目に、パルキアはゆっくりと起き上がった。
気付けば弱々しかった息も、落ち着いたものに戻っている。
「不覚でした。奴から受ける傷は少々厄介でして。ひとまず、お気遣いに感謝いたします」
「あ、ああ」
大した回復力だ。自分の無力さをますます思い知らされた気がして、愕然とする。
「私はギラティナを止めに行かねばなりません。……あなたはどうなさいますか?」
パルキアは見極めるようにじっと俺の顔を見た。
アブソルのことは助けたい。だが、俺などが行ってなんの役に立てる?
寧ろパルキアにとって守らねばならぬ対象が増えるばかりで、足手纏いにすらなるんじゃあないのか。
俺を見つめるパルキアの瞳に、失望と悲しみが宿る。


「私もあなたに感化され、自己の意思としても世界に生きるものを信じようとしていました。しかし、それは間違いだったのでしょうか」
言い捨てると、パルキアはずるずると長い体を引き摺って神体のもとに向かって行った。
たどり着くや、ミロカロスだった体は光と化して、神体へと吸い込まれる。神体の眼に瞬時に輝きが戻り、甲殻を軋ませ、低く唸り声を上げながら神体は、パルキアは真の姿となって起き上がった。
「あなたを仲間達のもとへと返しましょう。我々に関する記憶は全て消し、腕輪も返してもらいますが、ね。ギラティナとの勝敗がどうあれ、もう私が、いえ、我々があなたの前に姿を現すことは二度とないでしょう。さようなら、ピカチュウ。――平穏な、良い人生をお祈りします」
翼を広げ、パルキアは咆哮を上げる。
パルキアの計らいに甘んじれば、俺には平穏無事な一生が待っているのだろう。
恐らく、このまま行かせてもパルキアは勝てない。平穏な人生……ギラティナが勝つことを、パルキア自身が悟っているのだ。
それで、いいのか? 平穏は誰もが望むものだろう。
アブソルを犠牲にして?たった一つの犠牲で多くが救われる。……ふざけるな!
「待てッ!どうかしていた!俺は帝王だ、いずれ世界のすべてを掌握するものだ。世界征服の覇道に、生涯平穏などありえない。
か弱い幼子を犠牲にせねば成り立たん平和など、すぐにまた崩れ去るわ!俺もお前と共に行かせろ、ギラティナを止める!」


拳をぐいと掲げ、叩きつけるようにパルキアに向かって叫んだ。
見下す赤い眼を、これでもかと睨み返した。

数秒の沈黙を置いて、堪えきれないといった様子でパルキアが笑う。
「なんと傲慢なネズミだこと。だからこそ、それでこそ――」
高ぶる感情を抑えるようにして、パルキアは俺に手のひらを差し出した。
「参りましょう。ギラティナの奴めに思い知らせてやらねばなりません」
力強く頷いて、俺は上に飛び乗る。パルキアは片手の爪先で滑らかに空を撫で付け、開いた空間の隙間を目掛けて水面を跳ねるように巨体が飛んだ。
待っていろ。意地と誇りを見せ付けてやる。王として、世界を担わされるものの一つとして。

異空間に入ると、パルキアの周りに色彩の流れが引き寄せられ、整然と並び始めた。
色取り取りの風景が一面に敷き詰められた様は、さながら壮大なステンドグラスだ。
パルキアは全容を見渡しながら、色の位置をずらし、目的の出口を探っていく。
本来の主が宿ると、こんなにも扱い方が違うのか。これなら墜落の心配はなさそうだ。

程なくパルキアは一片に視線を留め、目の前に手繰り寄せる。
そこから覗く景色は、全くの暗闇。どんなに強い光が当たろうと飲み込んで掻き消しそうな、黒の中の黒だった。
苛立たしげにパルキアが牙をガチリと噛み鳴らす。
「当然、塞いである、か。不用意に飛び込めば今の私では危うい」
どうするのだ?俺が尋ねる前に、再びパルキアは空間を繰り始めた。
「ディアルガの下へ飛びます。対抗するには、やはり奴の協力は不可欠だ」

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