第39章 - 3

一体何が起ころうとしているのだ。ギラティナに尋ねても、一向に返事は無い。
と、パルキアを覆っていた影が、一際大きく蠢いた。蠢きは収まらず、どんどん膨張していく。
それから内部から一筋の光が差したと思うと、あっという間にひび割れの形で広がっていった。
「ガギャアアアッ!」
中からの一鳴きで包んでいた影の殻は破れ、豪快に伸ばした白き翼がこびり付く残りも全て脱ぎ捨て、掃い飛ばす。
出てきたのは傷ひとつ無い、何一つ変わっていないパルキアの姿だった。

全く通用していない、これでは足止めにすら……!
狼狽する俺を、パルキアは愉快そうに眺める。
「うろたえるでない。私だ」
響き渡るギラティナの声。それは頭に直接ではなく、パルキアの喉から発せられように聞こえた。


耳を疑いながらパルキアを窺う俺の顔は、ぽかんと間の抜けた表情になっていたことだろう。
彫刻のように滑らかな長い首の喉元が、極々僅かにくつくつと揺れた。
「如何に気取っていようとも、所詮は小さなネズミよの」
他の全てを見下したような語り口で紡ぎ出される声は、確かにギラティナのものに間違いなかった。
「一体何をした?」
すん、と鼻を鳴らし、引けていた腰をそっと戻して、俺は尋ねる。
「力の中枢を貫いたことで生じた意識の間隙へ影を通じて潜り込み、一時的に体を支配している」
「そんな真似ができるなら、何故もっと早くやらなかった」
最初から使っていれば、無様に逃げ回らせられる必要もなかっただろうに。 苛立ち、苦々しく俺は言った。
「一度しか使えぬ奥の手だ。確実に潜り込むためには、媒介として出来るだけ大きな影が必要であった。
……分断された私の力では、あまり長くは持たん。一刻も早く神殿へ向かう。来い」
ギラティナは早々に話を切り上げるようにして、手をこちらへ伸ばし、乗るように促す。
だが、俺はすぐには従わなかった。その鋭利な爪の並ぶ手を信用するには、あまりに疑念が大きくなっていた。
「ここはパルキアの領域なのだろう。襲われるであろう事も含め、どうしてそれを黙っていた?」
「まずは乗れ。行き掛けに話そう。切り札を使ってしまった今、こやつが再び目覚めてしまえば終わりだ」


従わなければすぐにでも支配を解き放つ。ギラティナの言葉はそんな脅しを孕んでいるようにも聞こえる。
体の自由が利くようになれば、すぐにでもまたパルキアの神体は襲い掛かってくるだろう。
奥の手を隠していたと分かった以上、今までのような油断は一切なく、俺一匹を消すには有り余る神の力を惜しみなく全力でだ。

対する俺は、長い間ろくに飲まず食わず休まずで走ってきたこの体で、背後に退路も無いこの状況で、それを迎え撃たなければならなくなる。
もしも限りなく低い可能性ではあるが、一旦パルキアを退けることが出来たとして、凶暴な魚達が闊歩するこの危険で異様な領域から逃れ、元の世界に無事帰る方法など見つけられるだろうか。

……どうやら、これからどんな命令をされようと従わざるをえない状況にまで、俺は追い込まれてしまっているようだ。
いや、それは最初から、ギラティナの話に乗ってこの世界に送り込まれた時点で、もう俺は全身を縛られていたのだ。
その縛っているものが真綿だったせいで気づくのが遅れたが、じわじわと束縛は引き締められ、気づいた頃には余計な身動きの出来る余裕はなくなっていた。

「何を躊躇している。早くせい」
急き立てられ、止むを得ず俺は砂地に降ろされた左の手の平に注意深く乗った。
ギラティナの操るパルキアの神体はゆっくりと左手を水平に持ち上げ、胸の前辺りに構える。


「こやつの力で道を切り開く。揺れに備えよ」
ギラティナの言葉に続いて、パルキアの神体は大きく咆哮を上げ、呼応して両肩の宝石が強く輝いた。
空間がびりびりと震え、揺れる。俺は甲殻の隙間に手をやり、しっかりとしがみ付いた。
神体は右手を勢いよく縦に振り下ろし、淡い桃色に輝く爪が空に同色の軌跡を残す。
光の軌跡はあっという間に裂けて広がり、神体が悠々と入り込めそうなほどの大きさになった。

「行くぞ。振り落とされるな」
そう告げ、ギラティナは空間の裂け目へと神体を飛び込ませた。
瞬間、俺の全身は強い光と妙な浮遊感に包まれる。光に少しずつ目が慣れ、俺はそっと目を開いてみた。
爪の合間から覗く“そこ”の様子は――形容しがたい、まさに異次元そのものだった。
協調性の無い様々な色達が一面に入り乱れ、異様な色彩の奔流となって流れていく。
その色の一つ一つが、よく見れば写真のように切り出されたどこか別の風景だと気づく頃には、すっかり目が回って気持ち悪くなっていた。

気分を治そうと目を閉じ、耳を澄ましてみる。目に煩い見た目に反して、この空間に余計な音は殆ど無い。
聞こえるのは自らの高鳴る鼓動と、パルキアの甲殻が擦れ合って軋む音くらいだ。
「気づいている通り、お前を送り込んだ地は今となってはパルキアの領域。
お前達が生きる世界の可能性の一つとして、試験的に作られた地よ」
その深海のような静寂の中、おもむろにギラティナは語りだす。


「かつて、幾つもそうした地が生み出されては、意向にそぐわぬと破棄されていった。神の管理無き未完成な世界の辿る道、その末路は惨憺たるものだ」
神体の喉が不機嫌にぐるぐると唸る。
「世界は大きな幼子のようなものだ。ちゃんと手を引いて導いてやらねばすぐに転び、道に迷ってしまう。思うよりもずっと脆く、か弱く、手のかかるものよ。何も手を出さず放ったままでいて、いつまでも無事でいられるわけがあるまい。……事実、アルセウス健在時には決して起こりえなかったような異常が今、お前達の世界には起き始めている。お前も目にしたであろう。精巧な己の複製を」
脳裏に、忌まわしい冷笑を浮かべた"奴"の顔がはっきりと思い起こされる。
自分と同じ顔をしているが、自分じゃあない。ミュウツーが作り出した俺のコピーのものだ。
ハナダの洞窟奥で遭遇した時の嫌悪感が再現され、全身の体毛が逆立つ。
「我らが神の領域に土足で入り込んで踏み躙る、傲慢でおぞましい生と死への冒涜だ。本来であれば世界自身の自浄作用にもより、何者が試みようと決して成功することのない存在だった。例え体が作れようと、そこに魂は宿らず、すぐに肉体は朽ち果てる――だが、例外が起きてしまった。最早、私にすら先の予測がつか――――世界に何が……か……ないのだ」


ギラティナの声が、途中から急にノイズが混じったようになりブツブツと途切れ出す。
「どうした?」
「どうやら残された時間が僅かなようだ。直にこやつは目覚める。出口は見……一気に――飛……ぞ、衝撃に備えていろ」
そう言うとギラティナは神体の翼を思い切りはためかせ、飛ぶ速度を急加速させる。
慌てて俺は再び鱗の隙間に手をやり、爪先をしっかりと引っ掛けた。
数ある色の中から白い光を一直線に目指し、ぐんぐんと迫っていく。
あれが出口か。近づいて見えて来るその場所の風景は、パルキアの領域に送られて最初に降り立った乳白色の建物の内部と少し似ていた。
中央奥に見える祭壇のような大きな建造物の上に、光り輝く何かが乗せられているのがちらりと見えた気がした次の瞬きの合間に、パルキアの体は頭から出口へと勢いよく突っ込み、巨石が大地を穿つような轟音と共に強い衝撃に全身を襲われた。


意識が暗がりに沈んでいく中、誰かが言い争う声が聞こえる……。
それは今ではない、遥か遠い過去の残響に思えた。

――『また創り直す、だと?』
『主のご命令です』

『何故だ。相応の理由を聞かせてもらおう』
『何故?主がお気に召さなくなったと申した。我々にそれ以上の理由など必要ないでしょう』

『ここまで我々が、私が守り育ててきたものをまたもすべて捨てろというのか?』
『愛着でも抱きましたか?そのような感情など我々には余計なものです。捨ててしまいなさい』

『余計なもの……違う、これは余計なものなどではない』
『……どうやらあなたは少々お疲れで、おかしくなってしまったようだ。すぐにエムリット達を呼んで、治してもらいましょう』

『いや、おかしくなったのはお前達だ。もう私は辛抱ならぬ』
『世界の元を、そして我らを創りだしたのも主だ。その命に逆らおうというのですか?』

『何者であろうと、もう世界を壊させはしない』
『そうですか……。残念ですが、今のあなたには力付くで消えてもらうしかないようだ。さようなら――』

遠退いていく声。途端に沈んでいた意識も急浮上し、ひやりとした石の感触を体に伝える。
「――う、ぐ……」
目覚めた頭に全身が鈍い痛みを訴え、喉が自然と呻く。

――……一体どうなった?
痛みを堪えながら手足に力を込めると、ゆっくりと体は地べたから持ち上がった。とりあえず四肢はまだ付いているようだ。
重い瞼を持ち上げる。視界に広がった光景は、異空間から見えたものと同じ、乳白色の石に一面を覆われた屋内だった。


不意に視界がぼやけて揺れ、足がぐらつく。まったく、酷い目にあった。まだ頭がくらくらする。
状況が切迫していたとはいえ、もう少し丁寧に降り立たせることは出来なかったのか。
非難の念を抱きつつ振り返ると、すぐ背後にあった白い竜の大きな顔と間近で対面する。
驚いて離れるが、神体はうつ伏せに倒れたままピクリとも動かない。
さしもの神の肉体も、強烈な着地の衝撃により昏倒しているようだ。ギラティナの思考も感じ取れない。
自分の体を散々な扱いにされ、本来の持ち主も災難なことだ。

こんなことを知られれば只では済まないだろう。神体を痛めつけてしまった以上に不味いのは、今回の件はパルキアに対して秘密裏に行われているものであろうこと。
寸前までパルキアの領地であることを俺に伏せ、こそこそと潜入させていた辺り、それはほぼ間違いないと見ていいだろう。
もしかすると他の神々にすら知らせておらず、完全なギラティナの独断という可能性さえある。
もしもそうだと仮定して、一体何の意図があってそんな危険な綱渡りを敢行したのか――。
奥に聳える祭壇の頂点から射してくる白銀の輝き。離れたここから見ただけでも意識を巻き込まれてしまいそうな異彩を感じる。あれが目的の白金の宝玉に違いない。

ギラティナと同じように、パルキアと恐らくはディアルガも、アルセウスに次いで最も強大な力を司る神々は、力を三つに分けられてしまっているのだろう。
大きな力の源であるあの宝玉を手にし、ギラティナが完全な能力を取り戻した時、絶対的な神の力に対抗しうる者は今誰一人いない。
その気になればすべてを掌握してしまえるのだ。


これはあくまで俺の推測でしかない。
それに、ギラティナの話を素直に受け止めるならば、世界の行く末を純粋に心配して行動している可能性だってまだ完全には捨てきれん。

――薄れる意識の中で聞いた、あの声。
世界を頑なに壊させまいとしていたあの声は、ギラティナによく似ていた。
朦朧とする意識が勝手に作り出して聞かせた、単なる幻聴だと切り捨ててしまえばそれまでだ。

だが、俺がテンガン山でアルセウスの企みを止める事となる以前から、ギラティナはアルセウスの下から離反して石版を盗み出し、世界の消滅を防いでいたのは事実。
思い返せばその当時、何も知らなかった俺はアルセウスの手に操られるままにギラティナの意思を潰し、崩壊への道を助長してしまったのだった。今回もまた……?

宝玉の下に向かう足が自然と早まる。ギラティナを信用できるはっきりとした確証は無いはずなのに。
罪悪感のようなものがそうさせてしまうのだろうか。

祭壇までもう少し。後は数段の段差を駆け上れば、宝玉は目の前だ。
段差に足をかけようとしたその刹那、つま先に掠りそうな程の位置に、立ち塞がるように音もなく横へ真っ直ぐに切れ目が走った。
びくり、と喉が鳴り、瞬間的に足を引っ込める。まさかと神体の方へ振り返るが、依然として倒れたままだ。
「さて、異常を感じて駆けつけてみれば、可愛らしいイタズラ鼠が一匹。これは一体どういうことなのでしょう」
ギラティナのものではない、だが聞いた覚えのある声がどこからともなく響く。


潔癖なまでに透き通った水を湛えながらも、その奥底に何を潜ませているのか窺い知れない深い湖のような声色。
ギラティナと言い争っていたもう一方の声だ。いや、それ以前にも俺はこの声を聞き、知っている。

俺は素早く視線を走らせてその主を探した。
右から左、天井までも見渡し、ふと視線を下へ向けると、足元にあった切れ目から、ガラスの“ひび”に似た細い光が伸びていることに気付く。
ひびは瞬く間に宙に蜘蛛の巣状に広がっていき、俺は慌てて祭壇から身を退いた。
十分な大きさにまで育つと亀裂は音もなく中央から破れ、出来た隙間から煌びやかな七色の鱗をもつ蛇とも魚ともつかぬ滑らかな長い体がするりと抜け出て降り立った。

「久方振りですわね。お元気でしたかしら?あまり再会を喜べる状況ではないのが残念ですけれど」
「ミロカロス……いや、パルキア」
その正体はパルキア――今はその魂と言おうか、が俺に接触する際に使っている仮の姿であり、後ろでのびている神体の真の持ち主だ。

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