第39章 - 2

「ふう……」
誰もいなくなった部屋で一匹、ミミロップは静かに物思いにふける。
ピカチュウを信じるとは言い切ったものの、その安否が心配なことには変わりは無い。
危ない目にあっていなければいいけれど――。
ミミロップはそっと手を組み、いるかどうかもわからない神に無事を祈った。

――最悪の状況だ。
巻き藁の如く次々と切り倒されていく柱の瓦礫と、背後から放たれているであろう目に見えず音にも聞こえない刃の隙間を、俺は死に物狂いで掻い潜りながら走っていた。
どうしてこうなった。
死ぬ間際の走馬灯のように思い返される、窮地に陥るまでの過程。
サクラビスを蔓で縛り上げた後、暴れ様に悪戦苦闘しながらもどうにか手綱と鞭代わりの加減した電気でもって乗りこなし、追っ手の魚達を俺はどうにか振り切った。
神殿までの良い移動手段が確保出来たと気を良くしたのも束の間、サクラビスは徐々に速度と高度を落としていき、やがて幾ら鞭を振るおうとも泳がなくなってしまう。
もう胸ビレを少し動かすことさえやっと、といった様子だ。
これ以上は無駄と判断し、苦々しく思いながらも俺はサクラビスの背を降りた。
そのまま乗り捨てていけば良かったものを、疲弊しきった姿に敵ながら哀れさを感じ、せめて嘴に巻きついている蔓だけは外していってやろうと思い立つ。
『いらぬ情けは身を滅ぼす』
その時のギラティナの苦言を素直に聞いておくべきだったと、今になって深く後悔している。


轡を取り去った途端、どこに余力を隠し持っていたのか耳をつんざく凄まじい大声がサクラビスの口から飛び出す。
黙らせろ、とギラティナが言うより早く、精根尽き果てたサクラビスは腹を上に向けて力無くぷかりと浮いた。
しん、と不気味な静寂が辺りを包む。体に残る力の全てを捧げ、何かを呼び寄せているような断末魔の叫び声だった。
『今すぐその場を離れよ。出来うるだけ遠く、全力でだ』
今までに無い焦りが垣間見える声色でギラティナは俺の頭の中に指示を飛ばす。
――だが、もう間に合わなかった。

突如として、空間を揺さぶるような巨獣の咆哮によく似た轟音が神殿の方から響き渡った。
直後、何か巨大な物体が神殿を飛び立つ。物体は翼のようなものを大きく広げ、明確にこちらの方を目指して向かってきていた。
大気が、空間そのものがびりびりと震える。俺の体も毛を逆立たせて震え上がっていた。
乳白色に輝くあの姿は、この距離からでも感じ取れる全身から漲る強大な力は、忘れられようはずが無い。
テンガン山の山頂、槍の柱に現れた白竜。空間を司る、神の一柱――パルキア。
『神殿にたどり着く前に奴に見つかるとは何たる失態だ……!
魂無き神体のみとはいえ、無事に逃れることすら容易ではないぞ』


低く唸るギラティナの声にはっきりと焦燥が感じ取れた。
奴はアルセウスの忠実な臣下のはず。どうしてこそこそと逃れる必要があろうか。
浮かんだ疑問をギラティナに問いかける間もなく巨体は目の前へと降り立ち、その衝撃で津波のように巻き上がった砂が俺に覆い被さっていた。
咳き込みながら砂から這い出て、立ち塞がっているパルキアを見上げる。
俺の姿をしっかりと確認すれば襲う事はないはずだ。
我が目的は奴の主であるアルセウスを助けること。
言わば味方なのだから。だが、俺を見下ろす奴の眼光は、縄張りを汚された野獣のような荒々しい敵意に満ちて赤く爛々と燃え滾っていた。
――魂の無い神体は理性無き獣と同じ。
出発前に聞かされていたギラティナの話が頭を過ぎる。
『そやつの目の前で一瞬も立ち止まるな!』
ギラティナが叫ぶ。大きく掲げられたパルキアの前足が、今にもこちらへ振り下ろされようとしていた。
咄嗟に横へと転げ、鋭い爪の生えた巨大な手を寸前で避ける。
その瞬間、つい先程まで俺が立っていた砂地に、尖ったもので撫で付けたような細い直線の跡がついた。


何だ、あんなに力強く振り下ろした割りにはまったく肩透かしの威力ではないか。
魂の無い神体というのは、案外大した力を持っていないのかもしれない。見くびる俺を尻目に、音も無く見えないカッターナイフが滑っていくかのように砂地の跡はまっすぐ伸びていっていた。
俺がパルキアの攻撃の真の恐ろしさに気づかされたのは、見えないカッターナイフが偶々進路上にあった柱を竹を割るかのごとく軽々と縦に真っ二つにし、その残骸が地に倒れた音を耳にして振り返った時だった。
俺は声を失い、半ば呆然として、初めからくっ付いていなかったように綺麗な柱の切り口を見つめた。
まったく理解を超えた力だ。衝撃波だとか風の刃だとか、そんなちゃちなものでは断じてない。
もっと恐ろしいものの片鱗だった。
『空間の繋がりを断つ。音にも目にも捉えらず、どんなに優れた盾も意味を成さん。まさに究極の刃よ。
まったくもって粗暴で野蛮なやり口だ。神体にも持ち主の心根が染み付くといえよう』
忌々しくギラティナは言う。
『奴が爪を振るってから空間が完全に裂けるまでは、ほんの一寸の間がある。
……お前の頭には煮え立つ湯に浮く泡のごとく、次々と疑問と疑念が沸いていることであろう。
だが、今は走れ。余計なことは考えず冷静に、私の指示通りにだ』


『鈍間め、右だ』
足は疲れで痺れ、耳が捉える音は己の荒い吐息に支配される中で、ギラティナの喝だけは容赦なく明瞭に頭に突き刺さってくる。
俺は半ば反射的に体を右に舵取り、崩れ落ちてくる瓦礫を避けた。
体を乗っ取られて操られているような気分だ。
もう足を動かしているのは本当に自分なのかすら分からない。

初めは霞んで見えるほどだった神殿との距離も、途方もなく巨大な輪郭がはっきりと分かるぐらいにまで近づいてきた。
僅かな救いが生まれるその一方で、少し視線を下にずらせば土台になっている高台が絶望的に切り立った高い崖として行く手を阻んでいることもまた思い知らされる。
『左に跳べ』
思考を中断し、急いで飛びのく。
が、少し遅れて刃に掠ったか、平たい尾先の中央が少し欠けて消え飛んだ。
「うぐッ!?」
荒れた息を押しのけて思わず声が漏れる。着地が乱れて手足が縺れそうになりながらも、何とか持ち直した。
幸い切り口は肉にまでは達してはいないようで痛みは無い。欠け方に少々問題はあるが……今は気にしている場合ではない。
あの神殿に到る方法を考えねば。

とはいえ、あんなに反り返った崖をよじ登っていくなど到底不可能だ。
自在に空を飛ぶ相手から逃げ切れるわけが無い。
――どうすればいい!?
心の中で叫ぶようにギラティナに訴える。
『確かに見事なねずみ返しよな。だが、その立派な反りのお陰で麓には巨大な影が広がっておろう。あの忌まわしく煌めく白色の図体をすっぽりと黒く包めそうなほどに大きな影だ』


ギラティナの言ったとおり確かに高台の下には色濃い日陰が出来ている。
無事にたどり着くことが出来ればハンテールの眼を欺いたときのように、影が俺を包み隠してくれることだろう。
魚風情は兎も角、神の目にまで通用するのだろうか。些かの不安はあるが、俺の体力にも限界が来ている。うまくいくよう神にでも祈るしかあるまい。
頭に偉そうに指示を飛ばす方にはしっかりと護ってくれるように、後ろから迫ってきている方にはうっかりと見逃してくれるように。


日陰に足を踏み入れると、一瞬水面のように広がっている影がさざめいた。
直後、黒く濃い染みが手や足からどろどろと伝り登って全身に行き渡っていく。
これで姿は隠されたはずだが。俺は後ろを振り返る。
パルキアは急に敵の姿を見失い、少し困惑した様子で立ち止まった。
どうにか奴の目にも通じたようだ。安堵しかけたのも束の間、パルキアは唸り声を上げてその両肩に埋め込まれている宝石のような器官からまばゆい光を放つ。
清浄で潔癖な光は日陰を瞬時に照らし、俺の体を包んでいた影もごっそりと体から剥がれ落ちた。
隠れていた獲物の姿を見つけ、パルキアは大きく咆哮を上げる。
よくも手こずらせてくれたなと言いたげに目を血走らせ、これからどう甚振ってやろうかと楽しみにしているような足取りでゆっくりとこちらに向かってくる。
いくら逃げようと思っても、疲労か絶望か、あるいはその両方によって最早足は竦むばかりで言うことを聞かない。
ここまでかと諦めかけた俺の目に、ちらりと腕輪の姿が映る。
……立ち向かうか。例え悪あがきでも、何もしないでやられるよりはいい。
心を一度構えてしまえば不思議と先程まで破裂しそうに鳴っていた鼓動も、荒れ果てた息も少しはましになった気がした。
最後にどう抵抗してやろうか。多少冷静さが戻った頭であれこれと考える内、ギラティナから受け取った剣の幽霊の事をようやく思い出す。


出し渋らせられていたが、今こそあれを使うべきところなのではないのか
『早まるでない。もっとこちらへと引き付けよ』
この期に及んで、一体何を企んでいる?
焦燥に駆られる間にもパルキアは着実に迫ってきている。
流石に自分の居城の土台を傷つけるのは良しとしないのか空間の切断を放ってこないのは幸いだが、直接引っ掻くことが出来る距離に来られては何の意味も無い。
俺はじりじりと後ずさっていくが、すぐに背が岩壁に突き当たった。
再びパルキアは吼え、爪を振り上げ一気に日陰へと踏み込んでくる。
『投げ放て』
ギラティナが言うと、腕輪からするりと一筋の影が蛇のように抜け出し、手中で剣の形となった。
俺は裂帛の気合と共に思い切り力を込めて剣をパルキアに投げつける。
パルキアは片手で弾き落とそうとするが寸前で剣は紐がほどけるように分かれ、何本もの黒い触手となってその四肢を鋭く貫いた。


大地が割れそうな程の絶叫を上げ、乳白色の巨躯が苦痛に身悶える。
その間にも剣だった影は鋭い先端で、西洋甲冑を髣髴とさせる外殻の隙間を狙い刺し、手足から体に向かって縫い進んで行った。
幾らもがこうとも侵攻は止まらず、抵抗も鈍っていき、じわじわと身体の自由は奪われているようだ。
パルキアは低く唸りながら、憤怒と憎悪の目をこちらに向ける。
身体を蝕まれる痛み以上に、虫けら以下と思っていたであろう相手の反撃を受け、更に屈しかけていることが、何よりの屈辱であり苦痛であるようだった。
最後の抵抗とばかりにパルキアは喉を振り絞り、呼応して両肩の宝石が淡く瞬く。
またあの光を放つつもりか。用心して俺は身構える。
だが、その瞬間を見計らっていたかのように影は甲殻の間から飛び出し、宝石を瞬時に刺し貫いて潜り込んでいった。


びくん、とパルキアの体が一瞬大きく揺れる。
途端に爛々としていた目の輝きは消えうせ、巨体は糸が切れたようにその場に崩れた。
「これは、やったのか……?」
もうもうと砂が舞い上がる中、一匹呆然として誰にでもなく呟く。
いや、完全に動かなくなったのを確認するまで、とても安心など出来ない。
相手は神であり、元より完全無欠に近しい生命体として名高い竜でもあるのだから。

俺は砂埃が晴れるのをじっと注意深く見張る。砂の合間から見えるのは、倒れたままの巨影。
もっと傍でしっかり確認しようと、にじり寄るように近づいていく。
――なんだこれは。
近寄ってよく見て、思わず俺は後ずさった。
パルキアの体にどろどろと脈打つ影が纏わりつき、すっぽりと全身を覆っている。
乳白色に煌びやかに輝いていた姿は一変し、まるで黒い蛹のようなおぞましい姿と化していた。

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