第30章 - 2

「逃げ……た?」
何が起こったのかわからないが、どうやら退けることはできたようだ。だが、これは偶然により起こった、辛勝と言わざるをえないだろう。
奴が逃げる前に起こした異変。あれが無ければ今頃どうなっていたかわからない。
張り詰めていた緊張の糸が緩み膝の力が抜ける。無理矢理に押さえ込んでいた痛みと疲労が一気に背にのしかかり、俺を地に押さえ付けた。
マントの背部が何か液体に濡れ、毛並みに張り付いている感じがあることに気付く。冷たく、寒い。何故か痛みを感じなくなってきた――。
周りから二つ、俺の名を呼ぶ声と駆け寄ってくる足音が響く。
「ピカチュウ……」
褐色の腕にゆっくり抱き上げられ、片膝を付きつつも上体を起こした。
「……ああ……無事か、お前達?」
「大丈夫、僕達は少し引っ掻かれた程度です。それよりあまり動かないで。ちょっと背中を見せてください」
そう言い、ロゼリアは俺のマントを外す。
「これは……なんという――」
ロゼリアが息をのむ音が聞こえた。そんなにひどいというのか――。


「相変わらず頑丈な布です。そしてあなたの悪運の強さも折り紙付きですね。――これを」
「む?」
ロゼリアが見せたのは無残に穴が開き、中身が漏れだしている回復の薬の容器だ。
どんな荒れた地にも我らを求め入り込む忌まわしきポケモントレーナー用の道具であり、少々のことでは決して割れないように考えられ作られている。
「裏地の両側面に背部……無駄に収納スペースが多くて便利なマントですね。最早、歩く道具袋ですよ。うわ、よく見たら端っこの方にドンカラスさんの名前が刺繍されてる――おっと、失礼しました。それに偶然当たらなければ、いくらマントの上からだったとはいえ生きてはいなかったでしょうね。背中、ひどい痣になってました。それだけです。その薬臭いびしょ濡れのマントを羽織っておけばすぐにそれも消えるでしょう」
……あれだけ重く感じていた体が軽がると持ち上がった。
「う、うむ」

「それにしてもあのラッタ、明らかに異常でしたね」
「ああ」
凶暴性、あの尋常じゃない力、そして何よりあの変貌……普通のラッタにはあり得ない。まるで――。
脳裏に実におぞましい、ある考えが浮かんだが、必死に振り払った。
ピジョン達は無事だろうか。だが、確認するすべは無い。退路は鋼鉄の壁に断たれ、左のシャッターの先は瓦礫に埋もれていた。
進むべきは一つしか残されていない。鬼と蛇が足並みをそろえて出てくることが分かり切っていたとしても。


一段一段、足を踏み下ろす度に、闇が触手となって身に絡み深淵へと引きずり込まれていくような嫌な感覚が強まっていく。
切れかけた電灯が一瞬点いてはすぐに消え、階段全体が雷鳴轟く不吉な暗雲を思わせた。

下り終えると、道はすぐ右に折れていた。想像していたよりもずっと広く地下は広がっているようだ。
洋風の内装であった一階とそれ程変わらない造りをしているのだが、どこか病院か研究所に似た雰囲気を漂わせていた。
黴と埃の臭いは消え、何か薬品の臭いが地下に下りてから強く空気に混じり始めている。
一階程荒れてはおらず、そこが逆にこの場だけが力と意思めいたものを持って時の流れに逆らっているかのようで不気味であった。
俺達を狙い潜む者の可能性に備え慎重に角を曲がり抜けた先には、今度は左へと折れ続く通路と、地上と同じ様相で頑強に閉ざされているシャッターの姿があった。
またしてもスイッチが見当たらないが、恐らくこれもどこか離れた場所に開閉の仕掛けがあることだろう。

案の定、それはあった。左の角を曲がった先、通路すぐ左脇の部屋で一階に設置されていたものと同じ石像は見つかった。
研究日誌と名が付いた、おぞましい薄汚れた書物と共に――。


書物の状態はすこぶる悪く、ロゼリアが開いたページを覗いてみても満足に内容を読み取れるようなものだとはとても思えなかった。
所々がかすれ、虫に食われたような穴が開いているのだ。
だが、そのような状態にあっても、ページが捲られる度に書物はロゼリアの眉間に嫌悪や怒りが入り交
じった皺を確実に刻んでいった。
「……内容をお聞きになりたいですか?夕食の喉の通りを気にするならばあまりお薦めしませんが」
書物に目を止めたままロゼリアは云う。
「構わん。話せ」
「状態が悪く読めない部分が多々あるので、内容は飛び飛びになると初めにお伝えしておきます。では――」

※年※月※日
――を用いた――の実験を行う。
被験体に身体能力の向上、そして自己再生能力が目に見えて現れた。
観察を続け問題が発生しなければ実験結果を――に報告し――

※年※月※日
被験体に異常な凶暴性が見られる。同ケージ内の他個体を――
実験は失敗。再生能力のため――による処分は困難と判断。凍結し、廃棄する。
今回の失敗は――

※年※月※日
改良を重ねるが、付加による被験体の――は避けられない。
弱い個体では遺伝子がもたらす力に耐えきれず、心身共に破壊されてしまう。
薬品の継続投与により多少は抑えられるが、強い肉体的ストレスを受けると、すぐに発作的な崩壊が始まる。
まず色素が原因不明の変質を起こし、全身が白く――

※年※月※日
新たな実験体が――よりもたらされる。
非常に貴重な物のため、繁殖または複製し実験に用いることとする。

※年※月※日
素晴らしい成果を上げている。
親は――たが子は無事に実験に耐え、完全に適合している。
更に調整を行い――


「ひどい……」
「……もういい、やめろ。十二分に今日の夕飯が不味くなった」
あの時、振り払ったおぞましい考えは、間違ってはいなかった。
人間の手によるポケモンへの非道な実験――。少しずつ不本意ながら自分の中に芽生えようとしていた人間への想いが、また躙り潰されようとしていた。
「自分の中で人間を憎みきれない所が有ったつもりですが……少々考えを改める機会をいただきました。でも――」
「うむ――」
ロゼリアは俺がいる方向に右花を向け、鋭い針を放った。
「とりあえず今一番に考えるべきは自分の身ですかね」
「ああ、その通りだな」
避けるまでもなく射出された針は俺の横を過ぎ去り、背後から短い叫びが上がる。同時に俺も体を捻って遠心力を加え、背後に尾を思い切り振るった。
確かな尾の応え。ボールのように跳ねて体を打ち付けながら、小さな影が地を転がっていく。
「やだ、気付かなかった」
「この方の他に、あと何匹哀れな被験体がここにいるんでしょうね。ちゃんと後始末はしてほしいものですよ」
「いつ起き上がるかわからん。急ぎこの場を去るぞ」
石像の仕掛けを手早く操作し、入り口付近で胴に針をうけて倒れている白いコラッタを残し俺達は部屋を出た。


閉ざされていたシャッターの先は、再び長い通路となっていた。通路の向こうには部屋らしき区切られた空間と、また左へと続く角がある。
この屋敷の本性を知り、目的は探索から脱出へと変わった。
しかし、未だ光明は見出だせない。行く手を阻んできた数々のシャッター仕掛けは外からの侵入者を防ぐ為だけではなく、内の逃亡者に備えられていた物だとすれば、脱出口が存在する可能性はゼロに等しいのではないか。
だが、ピジョン達と連絡する手段は無く、救助は期待できない。そして、安全にとどまれる場所など存在しない。
進むしかなかった。藻掻けば藻掻くほど身に絡む蜘蛛の巣の上だとしても。
冷徹な人工の照明だけが、化け物潜む牢獄を弱々しく途切れながらも照らしている。

「お気付きですか」
暗澹とした道に並んで足音を立てる中、ロゼリアが目だけをこちらへよこし、そう口を開いた。
「ああ。三匹――いや、四匹といったところか……」
部屋を出てからというもの、俺達の後をつける幾つかの気配を感じている。
先の二匹のようにすぐに襲い掛かってこないことを訝しく思いながらも、へたに迎え撃ってもすぐに再生され、こちらが疲弊するだけだと注意だけは払いつつもずっと無視していた。
「もっと居るわ。五、六匹――」
「……もっともっと最悪ですよ。前、見えてますか」
前方の曲がり角から三匹、小型の犬型ポケモン――ガーディが姿を現す。本来は赤い筈の毛並みは所々白くなっている。
眼に正気の色は無く、こちらの姿を確認するやいなや先頭の一匹が狂喜じみた遠吠えを上げた。
じわじわと付かず離れず迫っていた背後からの足音が、それを合図に駆け足へと代わり、瞬く間にガーディの群れが俺達を取り囲んだ。
「全部で九匹……降参の旗でも上げる?」
「こいつらの捕虜収容所は恐らく胃の中だ。それでもいいのならば好きにしろ」
最悪の状況だ。


だらだらと涎を滴らせ、狂犬達は包囲の輪をゆっくりと確実に狭めてくる。こちらが隙を見せればすぐにでもあの汚れた牙と爪とで飛び掛かってくることだろう。
この場をどう切り抜けるべきか。数、そして耐久力の面においても分が悪い。
策が浮かぶ前に、視界の右端で赤い閃光がちらついた。直後、吹き付けられた紅蓮の炎を電流の防御壁で逸らし、凌ぐ。凄まじい熱気が壁越しにもじりじりと伝わった。
襲い来る牙をいなし、電撃込めた拳で下顎を捉え殴り抜ける。感電しながら吹き飛ぶ一匹の横から間髪入れず飛び掛かかってくるもう一匹を、ロゼリアが長く伸ばした毒針を細剣のごとく扱って突き、防いだ。
「一日にそう何回も針は撃ち出せないので咄嗟の節約です。……あまりいい感触ではありませんね」
ロゼリアが針を引き抜くと同時にガーディは崩れるように地に伏し、動かなくなった。
重い殴打音と共にまた一匹が宙を舞い、床を弾み転がる。
「三匹目ッ!あんた達なんかにやられるもんですか」
自らの右足をぱんぱんと手で数回払った後、ミミロップはファイティングポーズをとり直した。

三匹が一気にやられ、少し怯んだのか攻撃は一時的に止み、残った六匹は低く威嚇の唸りを上げながら様子をうかがっている。
包囲網に若干の隙間ができた。訪れたこの一時の好機、逃せば終わりだ。床の三匹はもうほとんどの再生を終え、起き上がろうとしている。
通路奥の方角に俺は強く電撃を撃ち込んだ。避けられはしたが衝撃で粉塵が上がり、緩んでいた包囲に遂に穴が開く。
「駆け抜けるぞ。遅れるな!」


囲みを突破し俺達は駆け出した。後方から響くガーディ達の吠え声。
あるとも知れぬ活路を求め左に続く角を折れる。
通路の右側に並ぶ閉ざされた部屋々々、突き当たりには鎧戸――人間が一人通れそうな大きな裂け目が真中に開いている。
追ってくる無数の足跡がもう角を曲がりきった。開くかもわからない部屋を一々調べる余裕はなく、鋼鉄製のシャッターにどうやればあんな裂け目ができるのか考えている暇もない。
目指すべきはあの裂け目の奥。迎え撃つにしても、足止めを仕掛けるにしても、幅のある通路よりは幾分かましであろう。

裂け目の中に飛び込んだ先は広い部屋だった。中央に大きな机がぽつんと置かれている。他の敵の姿はない。
今駆けてきた通路の方を一斉に振り返り、構える。しかし、ガーディ達は鎧戸の数メートル手前で歩を止めた。こちらを睨んで唸り声を上げてはいるが、その場をうろうろするばかりでそれ以上進んでこようとはしない。

「何なの?」
「さあな」
理由はわからんが、今のうちにやるべきことはやってしまった方がいいだろう。
指示を出し、三匹がかりで――殆どミミロップの力だが――机をシャッターの前まで運び、裂け目を塞いだ。
「気休めですね」
「無いよりはいいだろう」
改めて部屋を見回すと、床に色が違う箇所が所々あることに気付く。元々は何か置かれていたのだろうか。
そして、更に奥の部屋へと続く扉が一つ――。

「何だか、嫌な感じ……」
半開きになっている隙間からも異様な気配を感じる。


隙間に手を入れ、ゆっくりと力を込め扉を開いていく。そうそう不意を打たれてばかりはいられない。
ミミロップとロゼリアを横に待機させ、俺は扉を背に部屋を覗き込んだ。
書斎か資料室と言ったところだろうか。部屋の壁は棚となっており、床にはそこに収まっていたであろう無数の本が散らばり、積みあがっていた。
そして部屋の奥の机に腰掛けているのは白い――。

「――ミュウツー!」
思わず身を乗り出し、声を上げてしまう。次々と俺の背越しにミミロップ達が覗き込んでくるのを、背にかかる加重で感じた。
手にした本に覆い隠され、ミュウツーの表情は読み取れない。ぱらり、とページを一枚ほど読み進める仕草を見せた後、姿勢を変えず、お前達か、とだけ言葉を発した。
「無事だったのだな。お前があの後どうしているのか気になり、様子を見にきたのだ」
声をかけながら俺は少しずつ部屋の奥へ、ミュウツーのもとへと歩んでいく。
「それで……自分自身の手がかりは見つかったのか?いや、それよりもこの屋敷は危険だ。正気を失った者達に我らも襲われた。まずは共に脱出を――」
俺の言葉の途中で、ミュウツーは本を閉じて傍らに置いた。そして顔を片手で覆い、くつくつと堪えるように笑いながら口を開く。
「自分自身の手がかり……だと?私が何者なのかだと?」
堪えていた笑いは荒れる川が決壊するがごとく溢れ出て、狂気じみた笑い声へと変わった。
「笑わせる!私は何者でも無い。最初から何者でも無かった。人工的に造られた忌まわしき生命。哀れな実験動物でしかなかったのだッ!」


それは、つまり。
「あなたは例の遺伝子実験の被験――」
言い掛けた言葉を、ロゼリアは自らの口を花で塞ぎ押し込んだ。
「あれを読んだか。そうだ。ミュウ――オリジナルを元に優れた遺伝子を選別、付加、調整され、誕生した体。創造者の手にも負えぬ遺伝子の落とし子。それが私、ミュウツー」
出会った時から普通の者でないということはわかっていた。多少の後ろ暗い過去がある事くらいは覚悟していたつもりだ。
だが、あまりに陰惨たる事実にかけるべき言葉は見つからず、喉の奥に詰まるばかりだった。
「正気を失った者達に襲われたと言っていたな。その者達を解き放ったのは私だ。この地下で培養漕ごと凍結されていたものを見つけたのでな」
「……何が目的だ。俺達はそのおかげで何度も生命の危機にさらされたのだぞ」
「より優秀な者の選別だ。蟲毒というものを知っているか。飢えた蟲共を狭い壺や箱に閉じ込めて共食いをさせると、生き残った一匹は強い魔力を得るのだという。人間の考えそうなくだらん呪いだ。無論、魔力を得るなどと信じてはいない。だが、選別の方法としては簡潔かつ合理的だと感じた。強き者が必要なのだ。大した力も持たぬというのに、自分達を生物の頂点と思い込みふんぞり返っている愚者共を引き摺り降ろすために。この世に繁栄するべきは、小賢しさだけで蔓延してきた奴らではない。選びぬかれた真の強者だけだ。奴ら――人間は自分達がまるで神にでもなったかのように我らを扱っている。しかし、それももうすぐ終わりだ。私が終わらせてやろう。これは攻撃、不当な侵略などではない。反撃――逆襲だ!共に来いお前達。生き残り私のもとへとたどり着いたお前達にはその資格がある」


確かに人間共の振る舞いは目に余る。
「その話に乗った場合、他の我が部下達はどうなる」
より根が深いのはミュウツーの方であろうが、その考えはよく似ていた。
「生命は保障しよう」
シンオウのギンガ団、カントーのロケット団――数々の非道な行いをまざまざと見せ付けられてきた。
だが――。
「断る」
頭に過ったのは同じ人間でありながら、それらと戦ったあの者達の顔。普通であれば自身に及ぶ危険を恐れて見て見ぬふりをするであろうに、あの者達は立ち向かった。
「このような陰気臭い地下に籠もっていては、この世が推し量れるものか。そのような黴臭い本だけでは人間の全ては学べん」
名声のためでも、自分のためでもない。我らポケモンのために、だ。
「お前のやろうとしていることは我らポケモンのためではない。只の独り善がりな復讐だ」
人間に懐柔されたわけでは決してない。借りは返す。それだけだ。
「構わんな。お前達」
「私はピカチュウについていくだけ。それにマシな人間も中にはいるのよねー」
「同じく。僕もまだそれほど人間に絶望してはいません」
思いは一つか。そして何より――。
「俺はピカチュウ。いずれ全世界を掌握し、帝王となるものだ。帝王は誰かの下になど就かん。頂点は常に一つ!」
「あちゃー……」
「それは同意しかねます」


びしりと叩きつけてやった拒絶の返答に逆上されることも覚悟した。
だが、ミュウツーはそれとはまったくの逆、鼻の先であしらうように薄く冷笑じみた表情を見せる。
「言ってくれる」
「何度でも言ってやる。答えは、断固として拒否。お前のあまりに過ぎた思想には賛同できん」
場に緊迫した空気が流れる。

「益々お前達が気に入った」
一触即発の沈黙を先に破ったのはミュウツーだった。
「いいだろう。お前達には借りもある。この場は見逃す」
そう言うと、ミュウツーは深く目を閉じ、両手を俺達の方へ向ける。
それと同時に体が奇妙な浮遊感に包まれ自由が利かなくなった。
両隣から短い悲鳴が上がる。
「何よこれー!うぇ、酔いそう……」
「念動力……ですか。強力な……」
ミミロップとロゼリアも俺と同じ状態に陥っているようだ。
「――何をするつもりだ」
「この場は見逃す、と言った。屋敷の外にお前達を送り返す。次に出会う時、再びお前達に問おう。拒み、私の前に障害として立ち塞がるのならば……敵は全力を持って排除しなければならない」
「俺の答えは変わらんぞ……!」
体を覆う浮遊感はなお一層強まり、視界にちらちらとモザイク模様のようなものが混じりはじめる。
「最後に忠告しておく。外に着きしだい、島から一刻も早く脱出することだ。直にこの島は滅びる」
散らばったモザイク模様は光の帯と共にうねり、徐々に感覚は遠退いていき――。

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